6-006-Sleeping Beauty



「――そうだ!」

 強い無力感に苛まれていたその時、僕の頭の中で、天啓のように閃きが走った。

 慌てて、自分の胸元を探る。

 そこにあったのは、淡い光を放つ、小さな蒼い宝石だった。

(これなら、もしかして……っ)

 一縷の希望を託して、僕は、そのペンダントを外した。

 震える手で必死に、意識のない彼女の首へと回してやる。

「……よし」

 ギュッ

 あとは、彼女の手を握って待つだけだった。

 …………。
 …………。

 女の人の苦し気な呼吸が少しずつ、浅くなっていく。

 脇腹の傷から流れる血は止まらずに、その顔色は、ますます白くなっていった。

 やがて、彼女は大きく息を吐き――そのまま呼吸が止まった。

(っっ)

 頼む、頼むよ……。

 祈る思いで見つめる僕。

 不安に満たされた10秒ほどの空白、そして次の瞬間、

 ヴォン

 ペンダントの蒼い宝石が強い光を放った。

「!」

 宝石の中に浮かんでいた奇妙な文字が、空中に大きく浮かび上がる。

(あ……)

 それは、僕が覚えた33文字の1種だと気づいた。

 その光る文字は、まるで触手のような数本の光を、死んでしまった女の人の肉体へと伸ばして、優しく触れていく。

 光の触れた箇所の、小さな傷が塞がった。

 光の触手が絡んだ足は、折れた骨が矯正されていく。

 脇腹にあった大きな傷は、欠損した部位に光の触手が収まると、そのまま肉体を補っていった。

(……凄い)

 これが、魔法……。

 初めて目にした輝きと奇跡は、あまりに優しくて、美しくて、目が離せなかった。

 心が震える。

 やがて、空中に浮かんでいた文字が、力を使い果たしたように消えていく。

 女の人の肉体に、もう傷は1つもなかった。

 大きく、胸が動いた。

「……呼吸してる」

 その事実に気がついた時、僕の全身から力が抜けた。

 よかった。

 本当によかった。

 その気持ちだけが、胸の中いっぱいに溢れてくる。

 ふと見れば、彼女の首にかけていた宝石は、まるでその命を彼女に与えてしまったように、灰色に変色してしまっていた。

(……ありがとう、宝石さん)

 心の底から思った。

 きっと僕の命も、同じように助けてくれたんだね。

 握っている彼女の手のひらも熱い……血流が戻っているんだ。 

「でも、起きないね?」

 呼吸も安定しているけれど、まだ意識は戻ってこなかった。

 考えたら僕が生き返った時も、一晩明けて、朝になっていたから、少し時間がかかるのかもしれない。

(…………)

 でも、このまま、ここに残していくわけにもいかない。

 この崖崩れの現場には、まだ、あの赤い怪物を殺した恐ろしい化け物がいるかもしれないんだ。 

「うん」

 僕は、眠ったままの彼女を背負った。

 う……重い。

 女の人にこう思ってはいけないだろうけど、子供の僕が、自分より大きな成人女性を背負うのだ。

 少しぐらいは許してください。

 そのまま、一緒に塔まで行こうと歩きだす。

 ズルズル ズルズル

 身長差で、どうしても足を引き摺ってしまう。

「ご、ごめんね。少しの間だけだから」

 意識のない彼女にそう謝りながら、僕は、遠い塔を目指して、森の中を一生懸命に歩いていった。


 ◇◇◇◇◇◇◇


「ふ~」

 塔の礼拝堂にある『葉っぱ布団』に彼女を眠らせて、僕は息を吐いた。

 苦労した。

 塔に戻るまで、3時間ぐらいかかった。

 最後、塔の2階部分まで瓦礫を登っている時に、足を滑らせて、危うく彼女を落としそうになったのは、内緒の話である。

 光る水を飲んで、ホッと一息。

(よく眠ってるね)

 僕の苦労も知らず、眠り姫はいまだ夢の中だ。

 …………。

 でも、本当に綺麗な人だな……と思った。

 年齢は、20歳ぐらいだろうか?

 端正な白い美貌は、まるで神様が創った精巧な人形のように美しかった。

 森のような深緑色の真っ直ぐな髪は、とても細く艶やかで、太ももまで届くほどの長さがある。

(……まつげ、長いな)

 そんな彼女は、白い鎧を身につけていた。

 薄い装甲を何枚も重ねて、可動域を多くしている。頑丈さより、動き易さを追求した鎧みたいだ。

 腰の左右には、2つのポーチ。

(……いったい、この女の人は、何者なんだろう?) 

 その寝顔を見ながら、想像する。

 ここは異世界だ。

 もしかしたら、この人は、人間ではないのかもしれない。

 だって、こんなに綺麗だし、

「もしかして……まさか、あの森の種族さん?」

 ちょっと期待してしまった僕は、眠り姫の耳を隠している長い髪を、指でソ~ッとどかしてみた。

 …………。

 現れたのは、普通の人の耳でした。

 残念。

 エルフじゃなかった。

 小さく苦笑した僕は、その美しい髪から指を離した。 

 柔らかく髪が戻る。

 ほぼ同時に、彼女のまぶたが開いた。

「…………」

(……え?)

 紅い宝石のような美しい瞳。

 それが、ぼんやりと礼拝堂の天井を見上げている。

(あ)

「よかった、目が覚めたんだね」

 思わず、笑って声をかける。

 それに反応して、真紅の瞳だけがこちら側に動いた。

 ガコッ

 次の瞬間、僕のあごに衝撃が走って、気がついたら仰向けに床に倒れていた。

 あれ?

(……今、もしかして殴られた?)

 そう悟った時には、僕の右手が捩じられて、身体をうつ伏せにさせられる。

 その背中に、彼女の膝が乗った。

「動くな」

 美しい声が命令する。

 僕の背中に体重をかけ、一瞬で拘束してしまったその人は、強い警戒心を滲ませた声で言う。

「動けば、折ります」

 ギシッ

 右腕が、更に捩じられる。

(い、痛い痛い! 肩が外れちゃう!)

 彼女の瞳は、油断なく周囲を見た。

「ここは、どこですか? 私はいったい……?」

 パンパン

 僕は、必死に左手で床をタップする。

 痛い痛い、やめて、助けて、降参です、もう許して……残念ながら、意味は通じませんでした。

 涙目の僕は、つい苦鳴を漏らす。

「う……うぅぅ」
「?」

 それに反応して、真紅の瞳が僕を見た。

「え……子供!?」

 拘束している力が緩んだ。

(! 今だ!)

 バッ

 驚いている彼女を全力で突き飛ばして、僕は、女神像の背中へと一目散に走って隠れる。

 そこから顔だけ出して、その人を睨んだ。

(な、なんて乱暴な人だ!)

 綺麗な見た目だから、騙された。

 美しい薔薇には、やっぱり棘があるんだ。

「…………」

 涙目で見つめる僕を、彼女は尻もちをついたまま、呆然と見つめていた。

 やがて立ち上がり、

「……あの」

 ビクッ

 震える僕に気づいて、彼女は踏み出しかけた足を止める。

 困った顔で、彼女は周りを見た。

 他に誰もいない。

 迷った末に、真紅の瞳は、もう一度、僕へと向けられた。

「その……突然、手荒な真似をして、すみません。もうしませんので、少し話をさせてもらえませんか?」

 先ほどよりも、柔らかな声。

(…………)

 まだ肩は痛い。

 疑いの眼差しを向ける僕に、彼女は悩ましそうに語りかける。

「その、ここにご両親はいませんか?」
「…………」
「いえ、大人の方ならば、誰でも良いのです。……できれば、呼んできて欲しいのですが」

 …………。

(う~ん?)

 乱暴な人かと思ったけれど、意外と理性的な対話を求めているみたいだ。

 少し、僕の中の警戒レベルが下がる。

(……でも、親や大人って言われてもなぁ)

 ブンブン

 僕は、左右に首を振った。

「いない」
「え?」
「そんな人、ここには誰もいないよ」
「…………」

 僕の答えに、その美しい顔が唖然となった。

「まさか……。では、ここには、貴方1人だけなのですか?」
「うん」
「いつから?」
「気づいた時から」
「ここがどこだか、教えてもらえますか?」
「僕の家」
「家ということは、ずっとここで暮らしている?」
「うん」

 正確には、5日前からだけど。

 それを聞くと、彼女は、黙り込んでしまった。 

(…………)

 その表情は、痛ましげに見える。

 もしかして、僕の境遇を心配してくれている……?

(ん~)

 ひょっとしたらこのお姉さん、そんなに悪い人じゃないかもしれない。

 見つめる僕の前で、彼女は、しばらく考え込む。

 それから大きく息を吐いて、

「もう1つだけ、教えてください」

(ん?)

 次の瞬間、彼女の美貌は、初めて、小さく微笑んだ。

「貴方の名前は、なんと?」
「…………」

 それは固い花の蕾が綻ぶような、とても美しい笑みだった。

 僕の中にあった警戒感を、一瞬で溶かすような優しさと労わりがあって、思わず、見惚れてしまう。

「……?」

 口を開けて呆ける僕に、彼女は首をかしげた。

 綺麗な髪が、サラッと肩から流れる。

(あ)

 我に返った僕は、慌てて答えようとして、でも、まだ自分に名前がないことを思い出した。

 え、えっと……どうしよう?

 無言のままの僕に、やがて彼女は、何かに気づいた顔をする。

「ああ、失礼をしました」

(え?)

「名前を名乗る時は、まず自分からでしたね」

 そう笑うと、子供の僕を見つめながら、自分の大きな胸元を手で押さえて言う。

「私の名前は、イルティミナ・ウォン」
「…………」
「王都にある『冒険者ギルド・月光の風』に所属する冒険者、その『魔狩人(まりゅうど)』の1人です」

 凛とした声と表情だった。

 まるで日本刀のような、強さと美しさを兼ね備えたイメージ。

 そして、

(……冒険者……この人が)

 初めて目にした異世界の冒険者に、僕の目は釘付けだった。

 他にも聞き逃せなかったのが、『王都』や『冒険者ギルド』という言葉だ。それはつまり、この森の外には、ちゃんと人々の生活圏があり、国や組織などが存在しているという意味だから。

(よかった、原始時代みたいな世界じゃなくて)

 心の中で安堵する。

 ただ『魔狩人』という単語の意味だけはわからなかったけれど、今はいいかと思った。

 気づけば、真紅の瞳は、真っ直ぐに僕を見ている。

(う……)

 そ、そうだ、名前だ。

 目の前にいる女の人は、イルティミナさんという、とても格好いい名前だった。

 できれば僕も、それに負けない、いい名前にしたい。

(ど、どうしようかな……え~と、え~と?)

 彼女からは、期待の眼差し。

 焦る僕の頭の中では、色んな候補がグルグルと回っている。

 あぁ、何だか目が回るぅ。

「まぁるぅ?」

 ふと目の前の女の人の口から、小さな呟きが漏れた。

(え?)

 まぁるぅって……回るぅ? あれ、もしかして口に出してた?

 気づいた僕の前で、彼女は嬉しそうに頷いた。

「マァルゥ……マール」
「…………」
「そう、貴方の名前は、マールなのですね?」

 違う。

 否定したかった。

 でも、嬉しそうな笑顔をこぼして僕を見つめる彼女に、それを伝えるだけの胆力がありませんでした。

「う、うん。僕は、マールっていうんだ」

 そう笑った。

 心の中では泣いた。

 転生した僕の名前は、こうして女の子みたいな名前になってしまった。