16-016 ・Cross the toggle cliff!



 森を駆け抜け、トグルの断崖へと辿り着く。

(速い、速い……)

 森を抜けるまで、なんと10分足らず。

 僕や大きな荷物リュックを抱えているのに、彼女の足は、その短時間で、ここまで走り切ってしまった。

 そして、イルティミナさんは、ここに来てようやく足を緩め、歩きだす。

「ふぅぅ」

 熱そうな息を長く吐く。

 でも、呼吸は大きく乱れていない。
 凄い体力。

(これって、冒険者が凄いのかな? それとも、イルティミナさんが凄いのかな?)

 基準がないから、よくわからない。

 心の中で首をかしげる僕を抱えたまま、彼女は、崩落した現場を歩いていく。

 30メートル近い大岩や散乱する瓦礫、倒れた木々の中を進んでいくと、やがて、赤牙竜の死体が見えてきた。

 血と腐敗した肉の臭いが、辺りに漂っている。

 イルティミナさんは、そちらを一瞥したけれど、すぐに興味を失ったように視線を外した。

 冒険者は、切り替えも凄いらしい。
 目的を果たす以外のことは、意識の外に切り捨てているみたいだった。

 僕らは、横たわった赤い巨体の横を抜けて、切り立ったトグルの断崖へと向かっていく。

(……?)

 なんだろう?

 ふと妙な違和感を感じた。

 なぜか赤牙竜ガドの死体から、視線が外せない。

 傷だらけの赤い巨体が、紫の血の海に横たわっている。

 その片方の牙は、折られて、今、僕のすぐ後ろにあるイルティミナさんのリュックに積まれている。全身に開いた傷口もそのままで、右目の上の致命傷も、残ったままだ。

 特に、先日に見た時と、変わったところはなかった。
 でも……、

(……何か、嫌な感じがする)

 胸が、強く押されているような感覚。

 これは、初めて『紫色の光』を――骸骨王を、見張り台から見つけた時と似ている気がする。
 なんで?

 ギュッ

 思わず、イルティミナさんに掴まっている手に、力がこもった。

「? どうかしましたか、マール?」

 気づいた彼女が、不思議そうに聞いてくる。

 でも、イルティミナさんは、何も感じていないみたいだ。

(なら、僕の勘違い?)

 やっぱり、いつもと違う心境だから、緊張もあって、そう感じるだけなのかな?

 赤牙竜を見つめたまま、僕はわからなくなってしまった。

 上手い説明も思いつかなくて、僕は、首を横に振った。

「……ううん、なんでもない」

 イルティミナさんは、少し首をかしげて僕を見つめたあと、「そうですか」と頷いた。

 そのまま、赤牙竜を残して、僕らは土砂と瓦礫の中を歩いていく。

「…………」

 もう一度だけ、振り返る。

 横たわった赤い鱗の怪物は、やっぱり動くことはなく、僕は少し悩んでから、前へと向き直った。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 遥か高みまで伸びた『トグルの断崖」――それは今、中腹辺りまで崩れている。

 崩れた土砂や瓦礫は、その下に流れ、まるで坂道のようになっている。

 イルティミナさんの健脚は、今、その土砂に足を沈めながら、グングンと坂道を上って、中腹を目指していた。

「僕、降りなくて大丈夫?」
「平気ですよ、マール。心配してくれて、ありがとう」

 僕に微笑みかけ、彼女は、また前を向いて歩きだす。

(いいのかなぁ?)

 頼りっぱなしで、申し訳ない。

 悩んでいると、ふと背中の方から風が吹いてくる。その風に誘われるように、僕は振り返った。

(う、わぁ……)

 凄い景色だった。

 僕らのいる中腹付近は、地表から50メートルの高みにある。

 そこから見えるのは、アルドリア大森林・深層部の全景だ。

 地平線まで続く、緑の樹海。

 その先にある、青い山脈とその奥に煌めく大海原。

 ふと近くを見れば、森の中のある丘の上に、僕らの暮らした塔がミニチュアの建物のように見えている。

(まるで、鳥になった気分だ)

 見張り台からの景色とは、比べ物にならない。

 これで晴れていれば、もっと素敵だったんだろうけれど……それは贅沢というものだろう、うん。

 1人頷いていると、カクンと身体が揺れた。

(おっとっと……?)

 イルティミナさんが立ち止まったのだ。

 僕は、慌てて彼女の首にしがみつき、その顔を覗き込む。

「どうしたの?」
「いえ、とりあえず中腹についたのですが……」

(え?)

 振り返ったら、土砂と瓦礫の坂道は終わり、代わりに壁のような垂直に近い崖があった。

 僕が景色を見ている間に、彼女は、中腹まで到着していたのだ。

「ご、ごめんなさい。気づいてなくて」
「いいえ、大丈夫ですよ」

 慌てる僕に、イルティミナさんは苦笑する。

 そして表情を改めて、彼女は、トグルの断崖を見上げた。

 僕もつられて、顔を上げる。

 崩落の影響か、中腹から崖上までは、凹凸の多い岩壁になっている。そこを手掛かりにしていけば、上まで登れそうだけど……。

(それでも、残り50メートルか……)

 簡単じゃないよね。

 今度ばかりは、僕もイルティミナさんの腕から降りようと思ったんだけど、彼女はまだ、真剣な表情で崖を見ている。

 真紅の瞳は、左右に動いて、何かを確認しているようだ。

「よし」

 イルティミナさんは、納得したように頷いた。

 そして、僕の方を向いて、

「マール、今度は、肩車です」
「……はい?」
「わかりませんか? 肩車というのは、私の首をまたぐようにして、マールが私の両肩に乗る形で――」

(いやいや、そうじゃなくて!)

 僕は、ブンブンと両手を振って、訴える。

「大丈夫! 肩車はわかるよ! ……でも、なんで肩車? 僕、今度こそ、降りた方が良くない?」
「いいえ、マールに、ここを登るのは無理です」

 はっきり否定された。

 ……ちょっとショック。

 でも、彼女は落ち着いた表情で、目の前にある崖に白い指を向ける。

「あの岩と岩の間……あの距離では、子供の手足では届きません。その先にも、同じような状況がいくつかあります。別のルートも考えてみましたが、やはりマールでは難しいでしょう」
「…………」
「ごめんなさい、マール。もう少しだけ、私に任せてください」

 最後に、申し訳なさそうな顔で謝られた。

 なんてことだ。

(……何も悪くないイルティミナさんに、謝らせてしまうなんて)

 無力な自分を認めるぐらい、素直にしなければいけなかった。

 僕は、彼女の足枷だ――その事実を受け入れられないなら、彼女を苦しめる更なる足枷にしかならない。

 同じ足枷なら、せめて足枷として、それ以上の重さを加えないようにしなければならないんだ。

(まったく……自分が情けないぞ、マール?)

 僕は大きく深呼吸して、パンッと両手で頬を叩く。

 イルティミナさんは、ギョッとしたように僕を見る。

 そんな彼女に、僕は言った。

「ごめんなさい、イルティミナさん。もう少し、僕のことをお願いします」
「……マール」

 驚いた表情。

 でも、すぐに笑って、

「はい。――マールのこと、今しばし、このイルティミナ・ウォンにお任せください」

 頼もしく頷いてくれた。 


 ◇◇◇◇◇◇◇


 そうして僕は、イルティミナさんの首を跨った。

 なんだか彼女の首の後ろに、股間を押しつける形になるので、ちょっとドキドキしてしまう……いかん、いかん、平常心だ。

 深呼吸して、心を落ち着ける。

(さて……それで、これからどうするんだろう?)

 気を取り直して、彼女を見る。

 と、イルティミナさんは、反対の手に持っていた白い槍を、その美貌の前まで持ち上げて、

 ハムッ

(……は?)

 と、その口に咥えた。

 プラプラと自由になった両手を揺らすと、彼女は、その片方を、壁面の凹凸へと引っかけた。

 グンッ

 重量のあるリュックの荷物と僕も乗せたまま、彼女はなんと、ロッククライミングの要領で『トグルの断崖』をグングンと登り始めてしまった。

(お? お?)

 結構、揺れる。

 慌てた僕は、艶のある綺麗な髪ごと、彼女の頭にしがみついてしまった。

 彼女の髪は、サラサラしていて触り心地がとても良く、甘いような匂いもして、ちょっとドキドキしてしまう。

(いやいや、そんな時じゃないだろう、マール!?)

 自分で思わず、突っ込んだ。

 その間にも、イルティミナさんは、長い手足を駆使して崖を登っていく。

 ドンッ バガンッ

 突然、2メートルぐらい縦に跳躍し、その足場となった大岩が崩れた。

(ひぇぇ……)

 ガランッ ゴゴンッ

 下の壁面を砕きながら、大岩は、遥か下方まで転げ落ちていく。

「ふっ……はっ」

 イルティミナさんの強い呼気が、槍を咥えた歯の隙間から、時々、漏れる。

 相当な力が入っているし、その真剣な表情からも、集中しているのがわかった。

 僕も、なるべく身体を揺らさないようにして、重心を定位置に保つように注意する。

(邪魔にならないように、邪魔にならないように……)

 そうして、15分ほどが過ぎただろうか?

 彼女の動きが、止まった。

(?)

 崖の上までは、あと10メートルほどだ。

 なのに、彼女は両足と片手で、自分の身体を支えながら、残った手を次の凹凸へと伸ばさない。

 それは、1分近くも続いて、

「……イルティミナさん? どうしたの?」

 さすがに僕は、声をかけてしまった。

 イルティミナさんの真紅の瞳が、こちらを向く。

 そして彼女は、咥えていた白い槍を空いた片手に持って、溜まったよだれと熱い息を大きく吐いた。

「すみません、マール……この先のルートが、見つからないのです」
「え?」
「下からは、登れるように見えたのですが……」
「…………」


(えっと……?)

 ルートって、つまり登れる場所のことだよね?
 え、それがない?

 ちょっと慌てながら、僕は、あと残り少しの崖を見上げた。

「あ、あのでっぱりは、どう?」
「恐らく、私たちの重量を支えきれずに、崩れます」
「じゃあ、あっち……」
「同じです」
「な、なら、え~と、あの段差は?」
「あの狭さでは、指先しかかかりません。今の、握力の弱った私では……」

 呆然とする僕を、イルティミナさんは申し訳なさそうに見つめる。

(でも、でも、ここまで来て……また下に戻るなんてっ!)

 というか、戻れるの?

 そして、もう一度、別ルートで登ったら、ちゃんと上まで行けるの? ここまで来てそうなら、とても行けるとは思えない。

 僕は、すがるように彼女を見る。

 見返す真紅の瞳には、苦しげな、辛そうな輝きがあった。それは、もはや彼女にはどうしようもないのだと、僕に伝えてくる。

(そんな……)

 力が抜けた。

 ようやく、ようやく森での生活から、脱出できると思ったのに……。

 最後に、もう一度だけ、僕は彼女に聞いた。

「本当に、無理……かな?」

 真紅の瞳が、僕の視線から逃れるように、悲しげに伏せられる。

「ごめんなさい、マール。……ごめんなさい」

(……あ)

 ハッと我に返った。

(僕の馬鹿たれ! また彼女に謝らせるなんて……)

 心の中で、自分を張り倒す。

 彼女1人に責任を押しつけて、どうするんだ! 彼女は精一杯にやってくれた、それで充分だろ?

 色々と湧いてくる感情を、全て、胸の奥で押し潰す。

(いいんだ、大丈夫! また別の方法を考えればいいんだ、問題ないよ)

 そう心に言い聞かせ、思い込ませる。

 目を閉じて、「ふー」と大きく息を吐いた。

 そして、まぶたを開ける。

 崖の上まで、10メートル――そこは、もう少しに見えて、とても遠い場所だった。

 その見上げる視界の中、崖の上の空を、1羽の鳥が飛んでいった。

 あぁ、あの鳥みたいに空を飛べたら……。

「え……空を飛ぶ?」

 ふと思いついた。

(もしかして、飛べばいいんじゃないのかな?)

 あの崖の上まで。

 ――僕が。

「イルティミナさん、1つ聞きたいんだけど?」
「はい」
「ここからあの上まで、僕を投げることって、できるかな?」
「え……?」

 彼女は、ポカンとした。

 すぐに僕の言いたいことに気づいたのか、少し考え込む。

 そして、頷いた。

「できると思います」

 本当に!?

(やった!)

 心の中で喝采を上げる。

「で、ですが、距離としてはギリギリです。もし失敗したら、マールはそのまま崖下まで転落して――」
「イルティミナさん、失敗する気なの?」
「いえ、そういうわけでは!」
「なら、大丈夫だよ」

 僕は、笑った。

「――僕は、イルティミナさんのこと、信じているから」

 彼女は、小さく息を飲む。

 それから大きく息を吐いて、僕の顔を見つめる。

 その真紅の瞳には、覚悟を決めた人だけが持つ光があった。

「わかりました。――では、マール。まずは私のリュックの横から、ロープを取ってください」
「うん」

 僕は、イルティミナさんに肩車している足を掴んでもらいながら、逆さまになって、リュックの横に丸められているロープを掴む。

「取ったよ」
「では、それを決して落とさないように抱えていてください」
「うん」

 ギュッと両手で胸に抱く。

 イルティミナさんは、一度、深呼吸してから、

「マールを肩から下ろします」
「ん」

 肩が斜めになり、跨がせていた足が外れると、僕の身体は下へと落下する。

 カクンッ

 一瞬、ヒヤッとしたけれど、掴まれている足首だけで支えられる。

 そうして、プランプランと揺れる僕の目の前に広がるのは、落ちたら絶対に助からない、遥か崖下までの光景だった。

 でも、

(……思ったより、怖くないね?)

 自分でも意外だった。

 やっぱり、『イルティミナさんだったら、大丈夫!』と心が受け入れているんだ。

 多分、その信頼は、僕の中で一番強い暗示になっている。だから、怖さを無視して、安心していられるんだ。

 そんな僕の耳に、真剣な彼女の声が届く。

「崖の上に行ったら、近くの木にロープを回して、それを私のところに落としてください。私は、それを伝って、上に登ります」
「うん、わかった」
「それでは、行きますよ?」
「いつでも」

 僕は、大きく深呼吸。

 不思議と、イルティミナさんも、大きく息を吸ったのがわかった。

(今――っ)

 ブォンッ

 思った通りのタイミングで、強い力が全身を襲った。

 視界が恐ろしい速さで流れて、そして、急激にその速度は落ちる――目の前にあった崖の端に、僕は必死に手を伸ばした。

 ガツッ

 肘が当たって、痛みが走った。

 でも、そんなのはどうでも良くて、僕はがむしゃらになって崖を蹴り、10メートルの最後のあと1歩をよじ登る。

「マールっ!?」
「大丈夫っ!」

 心配そうなイルティミナさんの声に、振り返らずに答えて、なんとか登り切った。

 や、やった!

 そして、目の前に広がっているのは、トグルの断崖の上、深層部ではないアルドリア大森林の風景だ。

 針葉樹の木々が乱立する、やはり、樹海のような森の世界が広がっている。

(でも、感慨に浸るのは、後回しだ!)

 僕は、ダッシュで一番近くの木へと向かい、ロープを垂らして、その周りをグルッと1周する。

 そこで縛ろうかと思ったけれど、子供の力で、丈夫に結べるかわからない。

 イルティミナさんの背負っている荷物は、100キロ近い重量があるはずだ。

 なので、ロープの両端を結んで、大きな輪のようにする。これで両方のロープを掴んでもらえば、万が一でも大丈夫だ。

(よし!)

 今できる精一杯の力で、結んだ。

 あとはそれを持って走り、

「イルティミナさん!」

 崖下の彼女めがけて、落とすだけだ――って、

「マール、無事ですか!? ……よかった」

 よくない!

 無事じゃないのは、彼女の方だった。

 僕を投げた反動があったのだろう。彼女は、片手だけで崖にぶら下がっていた。な、何やってるのーっ!?

 慌ててロープを放り投げる。

 彼女は、また白い槍を咥えると、投げられたロープを掴み、そこにぶら下がる。 

 ビンッ ギシィィィ

 ロープが張り詰め、木の幹と擦れる音が響いた。

 心配する僕が見守る中、イルティミナさんは力強くロープを登ってくる。

 そして、最後は崖の上に手を置いて、その身体全てを登らせた。

「はっ……ふぅぅぅ」

 地面の上に重たいリュックと白い槍を落とし、そのまま彼女はその場に座り込んで、長い呼気を吐き出した。

 僕がそばに近づくと、それに気づいて、

「マール」
「イルテ――わっ?」

 白い腕が伸ばされて、思いっきり抱きつかれてしまった。

 汗に湿った長い髪が、僕の頬をこすり、その熱い吐息が首筋をくすぐる。

 そうして、僕を抱きしめたまま、けれど、彼女は何も言わなかった。

 色んな感情が溢れて、言えなかったんだと思う。

「…………」

 僕も同じだった。

 だから、何も言わないまま、僕も小さな手で彼女の背中を、ポンポンと軽く叩いた。

 多くの労いと感謝を込めて――。

 ――そうして、僕とイルティミナさんは、行く手を阻んでいた『トグルの断崖』の登頂に成功した。