37-037, in a village in the Kroat Mountains



『癒しの霊水』に気づいてからは、竜車の旅は、快適そのものだった。

 酔いを感じたら、一口飲めば、それで治るんだ。
 そして、その安心感のおかげなのか、それとも身体が慣れたのか、2時間もしたら、もう酔うこと自体もなくなった。

(あぁ、よかった)

 元気になった僕に、イルティミナさんも嬉しそうに笑っている。

 さて、その頃になると竜車は、クロート山脈の山道を登り始めていた。

 車体は斜めに傾き、速度も、人が歩くのと変わらないレベルまで落ちている。
 ただ街道そのものは、3車線の広さを保ったままなので、一定のペースで進めている。道路脇には、灯りの石塔たちも、500メートル間隔でまだ設置されている。王都に向かう街道だからか、山道でも整備はきちんとされているみたいだ。

 窓からは、山を包み込む緑の木々が見えている。

(だいぶ、登ってきたなぁ)

 麓の方に視線を向ければ、僕らが通ってきた街道が、草原に1本線となって見えていた。

 そうして、更に4時間ほどが経過して――僕らは、今夜の宿泊予定地である村へと到着した。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 竜車から、硬い地面に降りる。

(うわ、変な感じ)

 揺れに慣れていたので、揺れないことに身体が戸惑っているみたいだ。

 ソルティスは、大きく伸びをして、長く座っていた身体をほぐしている。イルティミナさんとキルトさんは、自分たちの荷物を、竜車から下ろしていた。

 僕は、村の中を見回す。

 あんまり広い村ではなかった。
 メディスの石の城壁とは違って、木板の塀が村をグルッと囲んでいる。地面も石畳じゃなくて、土が剥き出しだ。家の数も、そんなに多くはないようで、商店らしい建物も見当たらない。だた、竜車が停まっている広場の近くには、数件の宿屋があるようだ。

(うん、いわゆる『普通の村』って感じ)

 視線を巡らせると、他の2台の馬車や竜車からも、乗客たちが降りているところだった。

 4人乗りの馬車から降りてきたのは、若い夫婦と子供の親子3人だった。
 楽しそうな笑顔を交わしているので、きっと家族旅行なんだろうね。男の子は、僕よりも幼い5、6歳ぐらいに見えた。

 もう一方の10人乗りの竜車からは、7、8人ほどの団体客が降りてきた。
 メディスの聖シュリアン教会でよく見かけた服装の人たちで、どうやら巡礼者っぽい。年齢的には、中高年の人たちだ。腰を叩いたりしながら、談笑している。

 そして、巡礼者たちが降りた最後に、武装した3人が降りてくる。

(……あ、護衛の冒険者さんだ)

 1人は、杖を持ったローブ姿の老人。
 もう1人は、腰の左右に短剣を差した、頬に傷のある若い男性。
 最後の1人は、

(エ、エルフさんだ!)

 長い金髪を背中まで伸ばした、繊細そうな美貌の女エルフさんだった。背中と腰に、それぞれ弓とレイピアを装備している。

 3人は、御者席にいた2人の仲間と合流し、会話を交わしていた。

(何を話してるんだろう?)

 聞き耳を立てようとしていたら、背中側から、イルティミナさんに声をかけられる。

「お待たせしました、マール。さぁ、宿に入りましょう?」
「あ、うん」

 僕は、慌ててそちらに向かった。

 彼女は、白い手を伸ばしてくるので、それを握る。そのまま、ジーッとイルティミナさんの美貌を見つめた。

「? どうかしましたか、マール?」
「ううん。――ただ、イルティミナさんって、美人だなって思って」
「……え?」

 うん、あっちの女エルフさんにも負けてない。

(いや、むしろ勝ってるよね!)

 艶やかな深緑の髪に、白い肌、切れ長の真紅の瞳――背も高くて、スタイルも良くて、しかも強い。完璧じゃないか。

 1人、自己満足で『うんうん』と頷く。

「おい、どうした? 早う来い」
「イルナ姉? ボロ雑巾~?」

 キルトさんとソルティスが、宿屋の前で僕らを呼ぶ。
 あ、いけない。

「行こ、イルティミナさん」
「あ、はい」

 なぜか真っ赤になっているイルティミナさんと一緒に、僕は、2人の元へと向かった。


 ◇◇◇◇◇◇◇  


 宿屋の1階受け付けで、キルトさんがチェックインの手続きをする。

 その間、僕は、店内を見回した。

 村の宿屋は、アルセンさんの宿屋ほど大きくない。でも、構造は似ていて、1階が酒場と食堂になっていて、2階が客室になっていた。
 ただクエスト依頼書を貼りつけるボードのような物は、見当たらなかった。

(多分、ここは一般の旅人向けの宿なんだね)

 冒険者のための宿とは、また違うんだ。

 やがて、手続きが終わって、僕らは2階への階段を上っていく。

 そうして辿り着いた部屋は、やっぱりアルセンさんの宿の部屋より小さかった。
 小さな寝台が4つ、荷物を置くための棚が1つ。
 あるのは、それだけだ。

(ふ~ん? このベッド、藁の上に、厚手のシーツがかけられてるんだ?)

 相変わらずの、お布団チェック。
 触ってみると、メディスの柔らかな布団とは違って、しっかりした手応えだ。うん、もうちょっと藁を増やしても、いい気がするなぁ?

 その間に、3人は、それぞれの荷物を床に下ろし、装備を外している。

「ほんと狭い宿よね~」
「こら、失礼ですよ?」
「ま、山間の村では、こんなものであろ」

 ベッドに腰かけ、鎧の留め具を外しながら、そんな会話をしている。

(やっぱり、狭いんだ?)

 心の中で苦笑しながら、僕も旅服の上着を脱いでいく。
 イルティミナさんに買ってもらった大事な服なので、丁寧に畳んで、自分の布団の上に置いておいた。

 やがて、銀髪をポニーテールにしたキルトさんが、「さて」と僕らを振り返る。

「遅くなったが、昼食を食べに1階へ行くか?」
「賛成~♪」

 ソルティスも、眼鏡少女になって頷いている。

 窓の外の太陽を見ると、多分、時間は午後2~3時ぐらいだろう。
 竜車だったので、お昼ご飯は抜きだった。

「行きましょう、マール」
「うん」

 イルティミナさんと頷き合って、僕らは、1階の食堂へと向かった。

 1階には、6人の御者さんと、あの巡礼者さんたちの一団も食事をしていた。

 軽く会釈だけして、僕らは、カウンター席に座る。

 相変わらずメニューの読めない僕は、「イルティミナさんと同じ物をください」と誤魔化して注文する。ちなみに、イルティミナさんが注文したのは、小麦パンと卵入り野菜スープのセットだった。

 ソルティスは、大盛り焼肉定食とアイスクリーム、キルトさんは、ステーキと炒めたライス、それにやっぱりお酒を頼んでいた。

 15分ほどで出てきた料理は、

(うんうん、悪くないね?)

 アルセンさんの料理ほどではないけれど、普通に美味しかった。

 その頃になると、あの親子3人や、護衛の冒険者さんたちも食堂に集まってくる。
 結構、賑やかになってきた。
 今日は他に泊まり客がいないみたいで、食堂には、僕らだけしかいない。

 やがて食事も終わって、僕は、食後の果実ジュースを飲んでいたりする。

(なんの果物だろ?)

 甘くて、ちょっと酸味のあるさっぱり系だ。
 でも、前世の記憶と結びつかない。ひょっとしたら、こっちの異世界だけにあるフルーツかな?

 奥の席では、キルトさんが、お酒のジョッキを何杯もあおっている。イルティミナさんは、僕と同じ果実ジュースを楽しんでいて、さすがに今日は、お酒は控えているようだ。 
 ソルティスは、デザートのアイスを何回もおかわりしている。

(ひーふーみー……うん、15枚かぁ)

 彼女の隣に積み上げられた、アイスのお皿の数である。さすがソルティスだ。

 奥のテーブル席では、巡礼者さんたちの一団が、食事が終えて、それぞれの部屋に戻ろうとしていた。
 ふと、その人たちの足元を見たら、靴がかなりくたびれている。

(それだけ、あちこちの聖シュリアン教会を、巡礼してきたってことなのかな?)

 いったい、どれだけの長旅だったんだろう?

 僕がいるのは、シュムリアという王国らしい。
 でも、そもそも僕は、この国の広さを知らない。いやそれどころか、メディスから王都ムーリアまでの距離だって知らないんだ。
 竜車で3日というのは、わかるけど、

「今日1日で、どのくらい走ったんだろ?」

 それがわからない。
 と、呟く僕の顔を、スプーンを咥えたまま、ソルティスが見ていた。

「何よ、ボロ雑巾? そんなこと知りたいの?」
「え? あ、うん」
「だいたい、55000メードよ。王都まで、3分の1の行程なんだから」

 55キロ? ってことは、

「じゃあ、メディスから王都ムーリアまでは、だいたい165000メードってこと?」
「そ」

 頷いて、ソルティスは、感心したように僕を見る。

「アンタ、掛け算できるのね? ちょっと驚いたわ」
「あはは、ありがと」

 ということは、こっちの世界では、計算のできない人もいるんだね。 
 僕は、眼鏡少女を見ながら、聞いてみた。

「あのさ、ソルティス? メディスから王都までのルートって、どんな感じなの?」
「どんなって……」
「僕、地図を見たことないからわかんなくて」

 この先、また山があるのか、川があるのか……それも知らないんだ。

 眼鏡の奥の瞳を丸くして、彼女は「そうなの?」と驚いた顔だ。
 それから少し考えて、自分のシャツの胸元を触る。

「ま、もらっちゃったし、いいかな?」
「?」
「灰色」

 あ。

 理解した僕に、彼女は、ニヤッと笑って、

「よし! じゃあ、このソルティス様が教えてあげちゃうわ!」

 カツン

 元気よく言ったソルティスは、突然、手にしたスプーンを目の前のアイスに突き刺した。2つに別れたアイスの片方を、丸いお皿の下側に、もう片方を、右側に置く。

「このお皿が、アルバック大陸よ。で、周りは海ね。――まぁ、大雑把だけど」
「うん」
「で、ここが、昨日まで私たちのいたメディス」

 スプーンの先が示したのは、下側のアイスだ。
 僕は、右側のアイスを指差した。

「じゃあ、こっちが王都ムーリア?」
「そ」

 彼女は、笑って頷く。
 スプーンは、メディスから王都ムーリアまで、溶けたアイスの線を残して移動する。

「メディスから王都ムーリアまでは、こんな風に街道で繋がってるの。途中には、クロート山脈とレグント渓谷があって、街道は、そこを通っていくわ。明日、泊まる予定の宿は、そのレグント渓谷の先にあるのよ」
「へぇ?」
「そこから王都ムーリアまでは、なだらかな丘陵地帯。特に、何もないわね」

 そうなんだ。

「はい。ソルティス先生、質問!」
「何かね、ボロ雑巾君?」
「この街道の他にも、王都に行くルートってないの?」
「あるわ」

 溶けたアイスの街道の途中から、スプーンがもう一本、山なりの線を引く。

「旧街道よ。今は、レグント渓谷に、立派な橋が架けられてて、真っ直ぐ行けるの。でも昔はね、レグント渓谷を迂回するルートしかなかったのよ」
「これが、その迂回ルート?」
「そ」

 頷いて、

「でも、もう誰も使わないわ。王国も整備をしてないから、きっと獣道みたいになってるはずよ」

 スプーンでクシャクシャと、そのアイスの線をかき消した。

 なるほどね。
 色々と勉強になった。

(それにしても、ソルティスって物知りだなぁ)

 同い年ぐらいのはずなのに、色んなことを知っている。

 僕は、思い切って、頼んでみた。

「あのさ、ソルティス? もしよかったら、他にも教えてくれる?」
「ん? 他って?」
「この世界のこと。シュムリア王国とは、アルバック大陸とか、もしあるなら、他の大陸のこととか」

 僕の青い目は、きっと期待と好奇心に輝いていただろう。

 ソルティスは、「そ~ね~」と呟くと、15枚のお皿から2枚を取り出して、テーブルの上にコトコトと置いた。
 その位置は、アルバック大陸のお皿の左隣、そして、その2つのお皿の真下だ。

 小さな手は、その3つのお皿をグルッと囲むように動かされる。

「ま~簡単に言うと、これが世界よね」
「ほほう?」
「左のこっちは、ドル大陸、下のは、暗黒大陸。――ドル大陸は、アルバック大陸と違って、獣人が多い国よ。こっちでは珍しい竜人とかいるしね。でも、文明的にはそんなに変わらないし、ドル大陸の7つ国とは、普通に交流もあるわ」
「へぇ」

 頷いて、僕は、下のお皿を指す。

「じゃあ、暗黒大陸は?」

 名前からして、なんだかドル大陸とは違いそうだ。

 案の定、ソルティスの幼い美貌が曇った。

「こっちは未開の地。大陸があるのは、40年前に発見されたわ。でも、各国から何回か開拓団が送られてるけど、毎回、全滅してるの」
「毎回……全滅?」
「そ。40年間、ずっと」
「…………」
「だから、何がどうなってるのか、さっぱりわからない土地よ? 興味はあるけど、正直、行きたくはないわ。――暗黒大陸には、『神魔戦争で生き残った悪魔』がいる、なんて噂されてるぐらいなんだから」

 悪魔……。

 その単語に、ドクンと心臓が跳ねた気がした。

 ソルティスは、息を吐いて、

「ま、そんな感じかな? あとはシュムリア王国だっけ?」
「あ、うん」
「まぁ、ここはアルバック大陸の南東にある、小さな国よね。アルバック大陸の7割が神皇国アルンの領土、残りの2割がシュムリア王国。あとの1割は、20の小国が集まったテテト連合国よ」
「……アルン、凄いね?」
「そりゃ、世界最大の国だもん。攻められたら、シュムリアなんて一瞬で溶けるわ」

 おいおい。
 僕の表情を見て、ソルティスは可笑しそうに笑った。

「大丈夫よ。あそこは、正義と愛の国だから、戦争の心配はないの」

 あぁ、そういえば、正義の神アルゼウスと愛の神モアが人気なんだっけ?

「それに今のアルン皇帝の奥さん、元シュムリアの王族だしね。ま、現皇帝の治世の間は、大丈夫でしょ」
「ふぅん」

 それなら、確かに大丈夫かも。

(でも、そういうのって、政略結婚なのかな?)

 それでも、幸せな夫婦生活を送っているなら、いいんだけど――なんて、余計なお節介を考えてしまう僕だった。


 ◇◇◇◇◇◇◇


「で? 他に聞きたいことって、まだあるの?」

 ソルティスが、溶け始めたメディスをパクッと食べて、そう聞いてくる。

 そうだなぁ……と、僕は少し考えて、

(あ、そうだ)

 ふと思いついた。

「赤道ってどの辺?」
「セキドウ?」
「あ、えっと……この世界を南北2つに分ける線、かな?」
「ん~、それならここじゃない」

 シュッと白い指が走ったのは、アルバック&ドル大陸と暗黒大陸の間の海域だ。

(なるほど。やっぱり僕らがいるのは、北半球なんだね)

「じゃあ、もう一つ」

 僕は、自分の指を、世界地図の内側から外側まで、動かしていく。

「こうして海を進んでいくと、どうなる?」
「どうなるって……」
「グルッと世界の反対側に続いたりしない?」
「しないわよ」

 ……あれ?

「……しないの?」
「当たり前でしょ? 世界の端まで行ったら、『境界の霧』に包まれて、そのまま進んでも、必ず元の場所まで戻されるわ」

 おっと……これは予想外だ。

(この異世界も、地球みたいな惑星だと思ったんだけど……違うのかな?)

 いや、もしかしたら『境界の霧』は魔法みたいな何かで、この惑星上で人が移動できる範囲を限定している可能性もあるよね。

(でも、何のために?)

 うう~ん。
 悩ましいけれど、今は、そこの答えは出なさそうだ。

 ソルティスは、考え込む僕を、なんだか不思議そうに見ていた。

「ボロ雑巾ってさ」
「ん?」
「なんか、物の考え方が独特よね? まるで別の世界の人みたい。なんか知識のすり合わせをしてる感じ?」
「…………」

 ちょっと驚いた。
 この幼い少女は、多くの知識だけでなく、鋭い観察眼もある本当に頭のいい子だった。

 僕は、笑った。

「ソルティスって、凄いね?」
「は……? な、何よ、急に?」
「だって、色んなことを知ってるんだもん。ちょっと格好いいよ」
「そ、そう? ――ふふん、尊敬していいのよ、ボロ雑巾?」
「うん、尊敬するよ」

 本当に。

(きっと、いっぱい努力したんだよね?)

 ソルティスは、凄い子だ。
 でも、これだけの能力を得るためには、彼女はきっと、この年齢の女の子が得られる色々な何かを、捨ててきたんだと思う。
 姉のためにしたその覚悟には、ただただ尊敬の念しかない。

 僕の視線を、彼女はくすぐったそうに無視して、溶けた王都ムーリアもパクッと食べる。

(ん?)

 ふと気づけば、そんな僕ら年少組を、2人の年長組のお姉さんたちが、とても優しい表情で見守っていた。

「フフッ」
「今日の酒も、また美味いのぉ」

 2人の視線に、僕は照れたように苦笑する。
 そして誤魔化すように、僕も果実ジュースの残りをゴクゴクと飲んだんだ――。