39-039 ・Study session with Iltimina
日が傾き、夕方になっても、宴はまだ終わらない。
お酒が大好きなキルトさんと大食い少女のソルティスを残して、僕とイルティミナさんは、先に部屋に戻ることにした。
――赤い夕日が、窓の外に輝いている。
「2人きりですね、マール」
「う、うん」
「フフッ、大丈夫。そんなに緊張しないで? 優しく教えてあげますから、私に全て、任せてください」
「うん、よ、よろしくお願いします、イルティミナさん」
ドキドキしながらベッドに座る僕の隣で、彼女は、美しい髪を耳の上にかきあげる。
桜色の唇が、ゆっくりと開いて、
「――では、アルバック共通語の読み書きを、お勉強しましょうね?」
と微笑んだ。
はい、そうです。
前に約束していた、文字の読み書きができない僕へのお勉強会が始まっただけです。
(……イルティミナさんって、色っぽいなぁ)
あんなに甘く囁かれると、違うお勉強を想像しちゃうよ?
うん。
まぁ、想像する僕が、全て悪いんだけどね。
と、いうわけで、勉強の時間が始まった。
イルティミナさんの白い手は、ベッドの上に1枚の紙を広げる。そこには、たくさんの文字が整然と並んでいて、
「これが、アルバック共通語の全文字になります」
「へ~?」
僕は、数を数えてみる。
ひーふーみーよーいつむー……おや、46文字?
(ひらがなと一緒だ)
ちょっと驚く。
そんな僕に、彼女は、1文字ずつを指で示して、読み方を教えてくれる。ふむふむ、日本語と似てるけど、ちょっと発音が違う感じだね。
「では、次は、私に続けて、マールも口にしてください」
「うん」
示した文字を、イルティミナさんが読んで、すぐに僕も続く。
「あ」
「あ」
「いぃ」
「いぃ」
「うるぅ」
「うるぅ」
マールの肉体は、喋ることはできるので、僕の発音は完璧だった。イルティミナさん――いや、イルティミナ先生は、満足そうに頷く。
「素晴らしいですよ、マール。とても上手です」
あはは、ありがと。
(でも、これ全部を覚えるの、大変そうだね)
悩んでいると、その表情に気づいて、彼女は優しく笑う。
「大丈夫ですよ、マール。これは、歌で覚えるんです」
「歌?」
驚く僕の前で、彼女は背筋を伸ばして、大きく息を吸う。
「♪~~♪~~♪~♪♪~~」
おぉ?
とても綺麗な歌声だった。
まるで童謡のような、子守唄のような、のんびりしたテンポの柔らかい歌だった。
歌詞に意味はない。
ただ発音だけを、メロディーに乗せている。
(あぁ、『ABC』の歌と同じだ)
前世でアルファベットを覚える時に、『きらきら星』のメロディーで歌った感覚だ。なるほど、この方が覚えやすいよね。
(きっと、この異世界の子供たちも、こうして発音を覚えるんだね?)
しばらく、その素敵な歌声に聞き入る。
やがて、そのメロディーは終わりを迎え、イルティミナさんは、「ふぅ」と大きく息をついた。
パチパチパチ
「凄い、凄い! イルティミナさん、とっても綺麗な歌声だったよ!」
「フフッ、ありがとうございます」
僕の拍手に、彼女は、ちょっと照れ臭そうだった。
「では、今度は、マールも一緒に歌いましょう?」
「はーい」
というわけで、僕も、歌声を響かせる。
最初は、一小節ずつ、やがて、それを繰り返して、全部通して歌うようになっていく。
そして気づく、新事実。
(……僕って音痴だ)
何度やっても、音程がずれる。
イルティミナさんが歌が上手なので、僕の下手さは、余計に浮き彫りになっている。
「だ、大丈夫ですよ? 大事なのは、楽しく歌って、読み方を覚えることですから」
両手を床について、うなだれる僕に、イルティミナさんは、焦ったように言う。
うぅ……必死なフォロー、ありがとうございます……。
(しばらくは、1人で歌って練習しよう……)
夕日に照らされながら、心の中で固く誓い、ちょっと遠い目になる音痴なマール君であった――。
◇◇◇◇◇◇◇
発音の読み練習は、いったん置いておいて、今度は、文字の書き練習だ。
アルバック共通語の全46文字の形は、今後も練習して暗記するとして、まずはどうしても覚えておきたい言葉が幾つかある。
「イルティミナさん、僕の名前の『マール』って、どう書くの?」
「フフッ、それは大切なことですね」
彼女は、笑った。
そして、新しい白い紙を用意して、そこに筆を走らせる。
書かれたのは、3文字。
「これが『マール』です」
「…………」
これが、僕の名前。
僕自身を、表す文字なんだ……。
(ちょっと不思議な気分だね?)
特に、特徴もなく、シンプルな字体だった。
でも、僕にとっては特別な、一生、付き合っていくことになる文字なんだ。
(なんだか、温かいような、くすぐったいような……)
小さく笑いながら、その墨の文字を、指でなぞる。
イルティミナさんは、とても優しい目で、そんな僕の行動を眺めていた。
なんだか、気分が高揚した僕は、美人先生に元気よく声をかける。
「じゃあじゃあ、次は『イルティミナ』ってどう書くの?」
「私の名前ですか?」
「うん!」
これは、僕の名前と同じか、それ以上に大事な文字だ。
イルティミナさんは驚き、それから、少し恥ずかしそうにしながら、紙に筆を走らせる。
書かれたのは、6文字だ。
勝手なイメージだけど、流れる風みたいな字体だった。
「これが、イルティミナさんの名前?」
「はい」
僕は、その6文字も、指でなぞっていく。
(これが、イルティミナ、か)
うん、もう1回なぞる。
大切な字だから、すぐに覚えよう。もう1回なぞる。もう1回。もう1回……。
「…………」
「あ、あの、マール、そのぐらいで……」
え?
なんだかわからないけれど、自分の名前を、何度もなぞられたイルティミナさんは、ちょっと赤くなっていた。
(???)
ま、覚えたからいいか。
「えっと、じゃあ次は『キルト』と『ソルティス』を教えて?」
「はい」
僕の言葉に、彼女は、また優しく笑った。
そして、書かれた3文字と5文字を、僕は、また指で何回かなぞる。
こうして4人分の名前が、頭の中にも刻まれる。
うん、目を閉じても、ちゃんと文字の形が、光の残像のように残っているぞ。
僕は、イルティミナさんの書いた紙は、裏返した。
ちょっと遠くに置いておく。
そして、新しい紙と筆を借りて、
サラサラ
4人の名前を書いて、それを、イルティミナ先生に見せてみた。
「どうかな? これで間違ってない?」
受け取った紙を、彼女は、驚いたように凝視する。
「……まさか、もう覚えてしまったのですか?」
「うん」
よかった、間違ってないらしい。
笑う僕を、彼女は、唖然としたように見つめていた。
「なるほど……マールは、私が思った以上に、頭が良いのですね?」
「そう?」
自分ではわからない。
でも、もしそうだとすれば、それはきっと、この『マールの肉体』のおかげだろう。
(物覚えのいい身体で助かるよ。……ありがと、マール)
自分の手に、心で語りかける。
そして、イルティミナさんは美しい髪を揺らして、大きく頷いた。
「わかりました。それでは、マール。もしよければ、このまま、もう少し色々な言葉を覚えてみませんか?」
「うん、お願いします!」
元気よく返事をする僕に、美人のイルティミナ先生は、満足そうに笑ったのだった――。
◇◇◇◇◇◇◇
それから、イルティミナさんは、色々な言葉を教えてくれた。
『犬』、『猫』、『竜』、『火』、『水』、『風』、『土』とか。
『はい・いいえ』、『好き・嫌い』、『男・女』とか。
『歩く』、『食べる』、『座る』とか。
それらの文字が、白い紙を埋め尽くしていく。
(なるほど……なんか、わかってきたぞ?)
そうしている内に、僕は、コツを掴んできた。
元々、マールの肉体は、アルバック共通語を喋れるんだ。その発音にあった文字を見つけ出せれば、単語だけなら、知らないものでも意外と書ける気がした。
例えば、『毛玉ウサギ』も
『け』『だ』『ま』『う』『さ』『ぎ』
の発音となる文字を書けばいいんだ。
日本語のように、漢字、ひらがな、カタカナの複合された文章じゃないから、とても覚えやすい。
(そう考えると、日本語って滅茶苦茶、覚えるのが大変だなぁ?)
日本語を書ける外国の皆さんは、本当に、凄い人たちだ……心から尊敬です。
あと文法に関しても、日本とはちょっと違った。
『僕の名前はマールです』
というのが、アルバック共通語だと、
『僕の名前 です マール』
となる。
うん、ここは英語っぽいね。もしくは、漢文?
詳しく突きつめると、また違うようだけど、そこまで深く掘り下げる必要もないだろう。だってテストがあるわけでもないし、実生活で困らなければ、それで充分なんだから。
(それに僕、もう喋れるしね)
全ての文字の発音が覚えられれば、読み書きで困ることは、なくなるはずだ。
……まぁ、今はまだ、うろ覚えだけど。
(よし、音痴だけど、がんばって歌おう)
そうこうしている内に、窓の外は、だいぶ暗くなってきた。
室内の暗さに気づいて、イルティミナさんは、紙に文字を書いている僕の手元から、視線をあげる。立ち上がって、部屋の壁にある照明に、火を灯した。
ぼんやりした灯りが、室内を照らす。
「マール、今日の勉強会は、このぐらいにしましょう」
「え?」
言われて、顔をあげる。
気づけば、僕の周りには、文字でびっしり埋め尽くされた紙たちが、何十枚も散らばっていた。
(うわ、いつの間に!?)
夢中で気づかなかった。
イルティミナさんは、クスクスと笑う。
そして、優しい目になって、
「マールは、本当に頭のいい子ですね。私は、驚いてしまいました」
「そ、そうかな?」
「フフッ、これでは、勉強会は、あと数回で終わってしまいそうですね」
ちょっと寂しそうな声だ。
そっか。
でも、僕としては、知りたいことが、まだまだたくさんあるんだよなぁ。
「あのイルティミナさん?」
「はい?」
「文字の読み書き以外のことも、僕に教えてもらえないかな?」
「……え?」
彼女は、驚いた顔をする。
僕は、真剣な眼差しで、イルティミナさんを見つめた。
「…………」
「…………」
なぜか、その白い美貌の頬が、赤くなった。
「マ、マール? 私に、な、何を教えろと?」
「え? えっと――」
「いけません。そういうことは、まだ早いというか……私もまだ、経験が――」
「アルバック共通語以外に、世界には、どんな言語があるのかとか」
「え?」
「え?」
「…………」
「…………」
僕らは、互いの顔を見つめ合う。
なんだろう? 何か、誤解があったような……?
やがて、イルティミナさんは目を閉じて、真っ赤になった頬を両手でパンパンと叩く。
そして、大きく深呼吸したあとの表情は、どこか安心したような、残念そうな、複雑なものだった。
コホン
一度、咳払いして、
「失礼しました。――他の言語について、ですね?」
「う、うん」
イルティミナさんは、何かしらの気持ちを切り替えたようなので、僕も姿勢を正す。
「そうですね、アルバック大陸においては、この共通語を知っていれば、どの国でも問題ありません。ですが、テテト連合国には、その他にも、独自の言語があるようです」
「へ~、そうなんだ?」
「20の小国の集まりですからね。その国ごとの言語も、存在します。しかし現在は、どの小国でも、多く使われるのは、やはりアルバック共通語です。連合国となって、より共通の言語が重要になったのもありますね」
なるほどね。
「しかし、ドル大陸に関しては、別です。あちらは、ドル共通語という全く別の言語が存在します」
「ふむふむ?」
「あちらの7つ国は、元々は、大きな1つの獣人の国でした。その時代の言語がドル共通語であり、今も、7つ国の公用語として使われています。国々によって、多少の訛りの違いはあるようですが、言語そのものは同一ですよ」
ふぅん。
同じ日本語でも、東北や関東、関西、沖縄とかで、微妙に違うような感じかな?
イルティミナさんは、少し考えながら、
「あとは、そうですね。……特殊なもので、エルフ語やドワーフ語などもありますか」
「エルフ!?」
反射的に、聞き返す。
イルティミナさんは、困ったような顔で「はい」と頷いた。
「種族としての言語ですね。とても独特の発声で、私たちには、上手く発音できない音もあります」
「へ~へ~?」
なんだか、面白そうだ。
そして、ふと、あの女エルフさん――シャクラさんの存在を思い出す。
「じゃあ、シャクラさんに聞けば、エルフ語を教えてもらえるかな?」
「…………」
「僕、あとで頼んでみようかな?」
「……マールは」
ん?
イルティミナさんが、なんだか悲しそうに笑っていた。……え?
「マールは、エルフが好きなんですね?」
「う、うん」
まぁ、好きというか、憧れかな?
「そうですか。では、あとで私からも、彼女にお願いしてみましょう」
「…………」
なんで、そんな顔で笑うんだろう?
イルティミナさんのその笑顔は、痛々しくて、僕の胸は、ズキッと痛んだ。
そのまま無言で、彼女は、僕の周囲に散らばった紙を集めていく。
「あの……イルティミナさん?」
「…………」
彼女は、何も答えない。
ただ真紅の瞳を伏せて、集めた紙束を、トントンと整えている。
そして、その動きが、ふと止まった。
(……ん?)
その瞳は、集めた紙の一番上を見つめて、驚いたように見開かれている。
何を見てるんだろう?
僕は、彼女の背中側に回って、それを見た。
そこには、僕が練習で書いた、たくさんの文章がある。その何百もあるそんな文章の1つに、こんな1文があった。
『マールは、イルティミナが大好きである』
…………。
(わぁあああっ!?)
僕は慌てて、その紙を引っこ抜いた。
イルティミナさんが、真っ赤になる僕を見る。
「ち、違うの! これ、練習だから!」
「…………」
「だ、だから、これは嘘……じゃないけど! 内緒の話で! いや、違くて! そのあのえっと――」
何を言ってるのか、自分でもわからない。
大慌てな僕を、彼女は呆けたように見つめ、そして、プッと吹き出した。
(わ、笑われた……)
彼女はクスクスと笑いながら、機能停止して真っ白になった僕を見つめる。
「フフッ、そうですか。マールは、私が大好きなんですね?」
「…………」
「大丈夫ですよ、マール。とても嬉しいです。――だって『イルティミナも、マールが大好きである』ですから」
大人の微笑みで、優しくそう言ってくれる。
(あぁ、フォローさせて、ごめんなさい)
……このまま消えたいぐらい、恥ずかしいよぅ。
僕が背中に隠した紙を、彼女は優しく取り上げる。他の紙たちと一緒に重ね、けれど、その一文だけを、指で丁寧に切り取った。そうして、手のひらに乗るそれを、しばらく眺めた。
そして、僕の頭を、優しく撫でて、
「ありがとう、私の可愛いマール」
甘く溶けるような声で、そう言った。
嬉しいけれど、僕は、恥ずかしくて動けない。
そんな子供の僕へと、イルティミナさんは優しく微笑みかける。
そして彼女は、手にした切れ端を、まるで宝物であるかのように両手で優しく折りたたみ、その懐へ、ソッとしまったんだ――。