42-042 Nightmare Demon
ジリジリと心を焦がす時間が流れ、やがて、空は茜色に染まっていった。
遠い山々が黒く陰り、赤く照らされた3台の車両は、山を削ったような谷間の旧街道へと差しかかる。
――いつ襲われるのだろう?
その緊張に僕が疲れた頃、突然、キルトさんとイルティミナさんが進行方向の窓を見た。
「――来たか」
「はい」
(え?)
驚いたのと同時に、世界が振動した。
ドォオン ドドォオオン
竜車の前方にあった街道脇の大きな木の根元で、爆発が起こった。
メキメキと音を立てて、木は倒れ、道を塞ぐ。
激しい土煙と枝葉が舞い散り、驚いた灰色竜は、大きくいなないて、仰け反るように前足を跳ね上げた。手綱を握っていた若い御者さんが、慌てて、暴れる竜をコントロールする。
「うわっ!?」
竜車が大きく傾き、僕は、座席から落ちる。
立ち上がろうとする僕の背中を、イルティミナさんの白い手が押さえた。
「また、揺れるかもしれません。そのまま姿勢を低くしていなさい」
「う、うん」
「イルナ、行くぞ」
キルトさんは、竜車の扉を開ける。
イルティミナさんは、「はい」と頷き、僕を見た。
「すぐ終わらせます。ここで待っていてくださいね」
「気をつけて。怪我しないでね?」
彼女は答えず、ただ嬉しそうに笑った。
「ソル。マールを頼みます」
「はいよ」
白い槍を手にして、イルティミナさんは開いた扉から、外に出ていった。
バスッ
彼女が消えた直後、鈍い音がして、竜車の扉に矢が突き刺さった。
「ひぃぃ!」
「くそ、マジに襲ってきやがった!」
悲鳴と悪態をこぼしながら、御者さんたちが竜車に飛び込んでくる。慌てて、扉が閉まる。
バスッ バスバスッ
連続した音が、竜車の壁に響く。
(凄い数の矢を撃たれてる?)
緊張と恐怖を覚えながら、僕は、窓から外を見た。
僕らを見下ろす両側の崖上に、弓を構える黒い人影が何人も見えた。そこから、何本もの矢が、雨のように降り注いでくる。
ガシャン
(うはっ!?)
覗いていた窓に直撃して、ガラスが砕けた。
「馬鹿、窓に近づきすぎよ!」
ソルティスの手が、焦ったように僕の襟を掴んで、後ろに引っ張る。
反対の手には、身長よりも長いあの大杖が握られ、魔法石は、白い光をキラキラと散らしていた。狭い竜車の中だと、とても扱い難そうだ。
「ごめん、ありがと」
答えて、僕は、ガラス片の当たった顔をこする。
あ……血だ。
ちょっと切ったらしい。
(破片、目に入らなくてよかった……)
安心し、そして僕は無事な目で、今度は距離を取って、ガラスのない窓から外を見る。
キルトさんは、灰色竜の横に立って、あの赤い布の巻かれた大剣を盾のようにして、襲いくる矢を弾いている。時々、まるで羽のように軽々振り回して、違う角度からの矢も当たり前のように迎撃していた。
(凄い……)
呆れるほどに頼もしい。
イルティミナさんの姿は、近くになかった。
どこに行ったんだろう?
後方の2台を見る。
そちらでは、クレイさんたちが同じようなことをしていた。
親子連れの乗っていた馬車は、可哀想なことに、2頭の馬の内の1頭が死んでいた。倒れた頭に深々と矢が突き刺さっている。
今は、残った1頭のそばにクレイさんが立ち、その剣と盾で、矢を防いでいる。
その隣には、シャクラさんがいた。
背中の弓を構えて、崖上に向かって、矢を射返している。でも、命中率は高くなくて、野盗たちには当たっていない。多分、上からより、下から狙う方が、飛距離も出ないし難しいみたいだ。
(危ない!)
シャクラさんに当たりそうな矢を、辛うじて、クレイさんの盾が弾いた。
た、頼むよ、クレイさん!
世界の宝のエルフさんに、傷を負わしちゃ駄目だからね!?
更に奥の、巡礼者さんの団体が乗る竜車では、他の3人の護衛ががんばっていた。
頬に傷のある青年が2本の短剣で、壮年の男性が巨大な戦斧で、飛んでくる矢から、大きな青色の竜を守っている。そして、ローブ姿の老人が光る杖を振り上げ、崖上の野盗に向かって、火球を撃ちだした。
バゴォン
崖上で火球が弾け、黒い人影が1人、燃えながら落下した。
(やった!)
つい喜んだ。
人が死んだのに。
でも、それぐらい切羽詰まっていた。
雨あられと振ってくる矢は、まさに『死の雨』だった。
当たれば、普通に死ぬ。
それは今も、僕の乗る竜車の壁に、何度も突き刺さっている。
(竜車を走らせて、まず谷間を抜けた方がいいんじゃないのかな?)
そう思った。
前は塞がれてるから、進むなら後ろだ。
でも、すぐに気づく。
3台目の竜車の後ろで、黒い煙が上がっている。爆発の痕跡だ。目を凝らしたら、街道に、倒木が横たわっていた。
(うわ、先手を打たれてる!)
一番最初に、竜車の進路を塞がれた時、爆発音は2つした。
つまり、すでに後ろ側も塞がれていたんだ。
「もしかして僕ら、完全に罠にはまってる?」
「ふん! こんなの、食い破ればいいのよ!」
ソルティスが雄々しく言う。
ふと思った。
彼女は、怖くないのだろうか?
近くでは、震えている御者さんたちがいる。片方は、戦の女神シュリアン様の加護を願い、片方は、護衛の人数を絞った所属する馬車ギルドへの悪態をついていた。
それに比べて、彼女は、とても落ち着いて見えた。
……いや、違う。
その幼い美貌には、やはり、張り詰めた緊張がある。
(怖くないわけ、ないんだ)
ただ、それに抗う、強い心を持っている。
そして、立ち向かうための戦う力も。
それと彼女を支えるものが、もう一つ――心から信頼する仲間の存在だ。
シュボッ キュドォオオン
突如、崖の一角が吹き飛んだ。
野盗たちが、何人も空を舞い、その高さから地面に落ちる。空に見えた野盗は、手足が千切れている者もいた。
(イルティミナさん……っ!)
2台目と3台目の車両の間の空中に、跳躍した彼女の姿があった。
その手に、翼を生やした白い槍が戻ってくる。
彼女は、空中でクルクルと回転し、飛んでくる矢をかわしている。そのまま、回転の勢いを使って、また槍を投げる。
キュボッ
白い閃光が、茜色の世界に走る。
ドドォオオン
地面が吹き飛び、岩が砕け、木が折れた。
そこに混じって、いくつもの黒い人影が、歪な形になって宙に舞う。
クレイさんたちが、驚愕の表情で、彼女を見ていた。
「やっぱり強いんだ……」
同業の冒険者から見ても、銀印の魔狩人イルティミナ・ウォンの強さは、別格らしい。
こんな状況なのに、それが嬉しくて、誇らしかった。
と――僕の隣で、ソルティスが大杖を揺らした。
「闇に隠れた敵を見つけなさい、ライトゥム・ヴァードゥ」
光る魔法石から、いつか見た光の鳥がピョコンと出てきた。
割れた窓から、ピョンピョンと外に出て、空へと羽ばたいていく。
茜色に染まった世界は、逆に、黒い影も作りだし、光と影の陰影が強くなっていた。その影の部分を、光の鳥の輝きは、消していく。
だから、気づいた。
(うわ、こんなに近くまで接近してた!?)
街道脇の茂みに、木の陰に、黒い装束に身を包んだ野盗たちが、10人以上いた。
矢に意識を奪わせて、別働隊が接近してたんだ。
「やっぱりね」
ソルティスは呟く。
きっと彼女は、こういう状況を前にも経験してるんだ。
「ちぃ!」
「一気に行くぞ!」
野盗たちの一団が、こちらの竜車に、黒い影となって襲ってくる。
でも、その真横から、残像となって別の小さな影がぶつかる。振り抜かれた大剣が、彼らを押し潰し、回転させながら弾き飛ばした。
鮮血が散る中を、銀色の髪が流れていく。
「阿呆が。この竜車は、襲わせぬぞ?」
思わず足を止めた残りの野盗たちを、黄金の瞳が睥睨する。
(キルトさん!)
小柄な背中は、けれど、その場の誰よりも大きく見えた。
同じように、他の2台にも、隠れて接近していた野盗たちがいた。でも、2台目の馬車は、イルティミナさんの白い槍とクレイさんが守り、3台目の竜車は、クレイさんの仲間が守っていた。
野盗たちは、次々と数を減らしていく。
「勝ったんじゃない?」
ソルティスが、薄く笑って呟いた。
確かに、勝敗は決した気がする。
あの5人の冒険者さんたちだけでは、正直、守れなかったと思う。でも、キルトさんやイルティミナさんの存在が、あまりに大きすぎた。
(強すぎる……)
野盗たちは、まだ残っている。
でも、彼らに打つ手はない。
きっと、『手に負えない獲物だった』と、引いてくれるだろう――僕は、そう思った。
だけど、
(……引かない?)
野盗たちは、姿を消さなかった。
舌打ちし、苛立った表情は、確かに予想外の反撃に、痛手を受けたことを示している。だけど、そこから闘争心が消えていなかった。
「……まだやるの?」
ソルティスも、意外そうに呟く。
不穏な気配が、血生臭い戦場に満ちている。
その時、僕はふと崖の上を見た。
弓を構えていた野盗たちは、ほとんどがイルティミナさんの槍によって、いなくなっていた。でも、残った数人の人影の中に、1つだけ、とても小さな影があった。
(……子供?)
遠目だったから、表情はわからない。
でも、野盗に混じってそこにいるのは、僕と同じぐらいの男の子だった。
口元が三日月のように赤く裂け、その子供は笑った。
「…………」
理由はわからない。
でも僕は、身体を硬直させ、思わず息を殺していた。
(僕を……見ている)
薄暗くて、口元の表情しか見えないのに、なぜか、それがわかった。
「どうしたの、ボロ雑巾?」
僕の様子に気づいて、ソルティスが心配そうに肩に触れた。
あ……。
子供の姿が、崖の向こうに消えた。
残された野盗たちは、こちら側へと谷を下ってくる。ひょっとしたら、彼らには、あの子の姿は見えていなかったのかもしれない……なぜか、そう思った。
「ごめん、なんでもないんだ。大丈夫」
「そう……」
説明できなくて、僕は、そう答えるしかなかった。
ソルティスは、納得できない顔をしていたけれど、深く追及はしてこなかった。
そんな僕らの耳に、嘲るような笑い声が響いた。
「――アンタら、やるねぇ?」
2台目の馬車の前に、1人の男が進み出ていた。
野盗の仲間だと思う。
でも、彼だけ、服装が違った。いや、服というか、下半身にボロ布を巻きつけただけの痩せた男だった。
見えている上半身には、刺青のような文字が刻まれている。
(あれ……?)
「あの文字、タナトスの魔法文字じゃないかな?」
「え?」
ソルティスが目を凝らし、「本当だわ」と驚いたように呟いた。
それから、僕を睨んで、
「ちょっと、なんでアンタが、タナトス文字を知ってるのよ?」
「いや、色々とあって――」
弁解する僕の声は、途中で止まった。
クレイさんが、痩せた男に接近し、その剣を振り下ろしていた。
斬った――そう思った。
バキョッ
次の瞬間、クレイさんの右腕が消えた。
(……え?)
剣を握った右腕が、痩せた男の手にあった。
クレイさんは、呆けたように、目前にある自分の腕を見つめる。鮮血が、その肩から吹き出し、シャクラさんが甲高い悲鳴をあげた。
「ク、クレイさん!?」
僕は、唖然となった。
痩せた男は、クレイさんの腕をかじる。
「……やっぱマズイな、男の肉は」
ペッ
すぐに吐きだし、痩せた男は、千切った腕を捨て、いやらしい笑みを浮かべた。
その視線の先にいるのは、白い槍を手にした美しい女だった。
彼女は、無言のまま半身になり、白い槍を構える。深緑色の艶やかな長い髪が、茜色の空を渡ってきた風に、長くたなびいた。
「お前、『魔血の民』だろ?」
痩せた男は、呟いた。
ピクッと、イルティミナさんの表情が反応する。
「いいね、喰わせろよ? ――その『悪魔の子』としての力と血肉を、この俺にさぁ」
悪魔の……子?
無表情だったイルティミナさんが、怒りの表情で踏み込んだ。
キュボッ
白い槍の突きが、一閃。
「……へぇ? 速いな」
「っっ」
でも、その恐るべき威力の槍の先端を、痩せた男の右手が掴んでいた。
イルティミナさんが驚き、ギリッと歯を軋ませる。槍を握った彼女の両腕が震え、全力で槍を引く。でも、痩せた男の片手で掴まれた槍は、ビクともしなかった。
「ちょっと……嘘でしょ?」
隣のソルティスが、驚きの声を出す。
倒れたクレイさんとすがりつくシャクラさんを、仲間たちが無理矢理に引きずって、あの2人から距離を取らせていた。
次の瞬間、イルティミナさんが槍を手放し、後ろに仰け反った。
ヒュボッ
「お、避けたか?」
痩せた左腕が、いつの間にか、振り抜かれていた。
ヒュッ ボッ シュオッ
残像だけを残して、左腕が何度も突き出される。
けれど、イルティミナさんは、同じような速度で、それをかわし続けた。そして、回避で回転しながら肘での一撃を、男の右手に当てる。
「お?」
痩せた男の手から、槍が離れる。
キュボンッ
白い手が空中でそれを掴み、一瞬で、痩せた男の腹部を貫いた。
「マジか? お前……やるなぁ?」
口から血をこぼし、嬉しそうに笑う。
致命傷のはずなのに、まるで効いていない顔だ。
(なんなんだ、あの男……?)
冷たい恐怖が、背筋を登ってくる。
イルティミナさんは槍を引き抜き、一気に後方へと跳躍する。
でも、その動きに合わせて、腹から内臓を垂らした痩せた男は笑いながら、彼女を恐ろしい速度で追いかけた。
その鼻っ柱に、大剣がぶち当たった。
「――なんじゃ、貴様は?」
バキョッ ズガガガン
バットでボールが弾かれたように、大剣で殴られた痩せた男は、地面の上を何度もバウンドし、砂煙をあげて転がっていった。
イルティミナさんを庇うように、金印の魔狩人が立っている。
「キルト……」
「下がっておれ、イルナ。こやつは、少し異常じゃ」
低い声が告げた途端、
「グハハハハッ! いいねいいね、お前も美味そうだ!」
土煙を吹き飛ばし、現れた痩せた男が哄笑した。
潰れた鼻から血を流しながら、けれど、その瞳には、狂気と狂喜を湛えて、美しい2人の魔狩人を凝視している。
「お前も、『魔血の民』なんだろ? なら喰わせてくれよ、その太古の悪魔から受け継いだという呪われた血肉をさぁ!」
「…………」
「取り込ませてくれよ、その化け物みたいな魔力の凝縮された血と肉をさぁああああああ!」
ベキベキベキ……ッ
叫びと共に、刺青となったタナトス魔法文字が光りだし、痩せた男の輝く皮膚を裂いて、内側の肉が大きく膨れ上がった。
骨が軋み、手足が膨張して、壊れた人形のように暴れながら伸びていく。眼球は反転し、ただ血のように紅一色に染まった。あごが外れそうなほどに広がり、その長い犬歯が盛り上がる。
(…………)
現れた怪物の名前を、僕は知らない。
黒く硬質な皮膚をした、体長3メートルはある巨大な猿のような異形の生物――それは、赤牙竜のような圧倒的な強者の気配を感じさせる。
「あれ……人喰鬼(オーガ)なの?」
隣の少女が震える声で、その名を呟いた。
血のような茜色の空の下、驚愕に染まった僕らの耳に、
『キュオァアアアアアアアアアアッ!!!』
恐ろしい怪物の雄叫びが、長く長く木霊した――。