146-144, dawn



 目が覚めると、僕は森の中にいた。

(……あれ?)

 周囲は薄暗い。

 どうやら、まだ夜のようだ。

 星々の夜空に雲はなく、紅と白の美しい月たちが輝いている。その月光に照らされて、地上の視界は、ぼんやりとだけど開けていた。

「目が覚めましたか、マール?」
「!」

 耳元で囁かれた声に、ビクッとなった。

 鼓動が速くなる。

 ふと、自分の小さな身体が、誰かに抱きしめられているのに気づいた。

 ゆっくり顔を振り向かせれば、

「……イルティミナ……さん」

 あの人が、すぐそこにいた。

 大きな木の根元に座りながら、子供の僕の身体を抱きしめてくれている。

 僕は、震える手を伸ばした。

 彼女の頬に触れる。

(……温かい)

 怯えるように、僕は訊ねた。

「……本物、だよね? 本当のイルティミナさんだよね?」
「はい、マール」

 優しい微笑み。

 あの、僕の大好きな笑顔がそこにあった。

 思わず、泣きそうになった。

 そんな僕のことを、彼女は強く抱きしめてくれる。

 柔らかな胸に顔を押しつけられ、大きな太ももで身体を挟まれ、白い手で髪を何度も撫でてもらえた。

(……あぁ)

 甘やかな匂い。

 熱い体温。

 心地よい弾力の身体。

 耳触りの良い、涼やかで通りの良い声。

 そこには、夢ではない、確かな彼女の存在があった。

(……イルティミナさん……っ)

 思わず、涙がこぼれる。

 頬を流れたそれは、彼女の服を濡らしてしまった。

 でも、イルティミナさんは、僕を離さなかった。

「マール、マール」

 何か大切な宝物を抱きしめるように、何度も僕の名前を呼びながら、ずっと身体を密着させていた。

 美しい月夜の森で、僕らは、互いの存在を確かめ合ったのだ――。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 しばらくして気持ちも落ち着いた頃、僕は、ふと気づいた。

(……あれ? 怪我が治ってる)

 失ったはずの左目も左腕も元通り、全身の負傷や火傷さえも消えてしまっていた。

 ――まさか、夢?

 あのルド村での日々や、幼いイルティミナさんに出会った出来事は、みんな、幻だったのだろうか?

(いやいや、そんな馬鹿な)

 あんな痛みのある夢なんて、見たことない。

 魔熊の肉だって、本当に美味しかった。

 色々な匂いや、物に触った感触もちゃんとあったし、今も覚えている。

 僕の様子に気づいて、

「夢ではありませんよ」

 イルティミナさんは、そう言った。

 思わず、彼女の顔を見る。

 白い美貌は、少し言葉を選ぶような表情を見せ、それから、こう教えてくれた。

「いえ、夢に近いと言えるのでしょうが、より正確には、私の記憶に感応した『精神世界』であったというべきでしょう」

(……精神世界?)

「要するに、私の心の世界です」
「…………」

 ごめんなさい……ますます意味がわからないです。

 僕の表情に、彼女は苦笑した。

 そして、ワンピースのポケットから何かを取り出して、僕へと見せてくれる。

 ――それは『虹色の球体』だった。

(は?)

 その美しい球体は、間違いなく、大迷宮で僕らが手に入れたばかりの『神武具』そのものだった。

 イルティミナさんが言った。

「どうやら、この『神武具』の力が影響したようなのです」

 そこで説明された内容は、こうだ。

 イルティミナさんは、過去の悲劇のトラウマに苦しんでいた。

 そして、それに気づいた『神武具』は、彼女を助けようとしてくれたそうだ。

 その方法が、追体験。

 精神世界の中で、その悲劇をやり直し、自身の望んだ形へと完結させることによって、トラウマを克服させようという試みだ。

(…………)

 そう言えば、思い出した。

 大迷宮の最下層で、虹色の繭に包まれた時、僕は、外の様子を映像として見ることができた。

 視神経に作用したんだ。

(つまり『神武具』には、人の五感に影響を与える能力があるんだね……?)

 それによって、現実と錯覚するような疑似体験を引き起こせる。

 本来は、戦闘用なんだと思う。

 戦闘中に持ち主が負傷しても、その痛みを制御し、失った視覚や聴覚などを補完する――そんな機能なのだと、アークインの感覚から、なんとなくわかった。

「…………」

 虹色の球体を見つめる。

(……もしかしたら、今回のことは僕のせいかもしれない)

 そう思った。

 あの時、僕は苦しんでいるイルティミナさんを見るのが辛かった。何とかしたい、と願っていた。

(それに……応えてくれたの?)

 イルティミナさんが失踪する直前、『神武具』が弾け、光の粒子となって僕らに降り注いだのを覚えている。

 あれが、そうだったのかな。

 本来は、竜車の中で精神世界へと誘(いざな)われるはずだったんだろう。

(でも、イルティミナさんが飛び出しちゃったから……)

 僕らは森の中で、精神世界に入り込み、そして、森の中で目が覚めたってことなのだろう。

『神武具』にとっても、予想外だったんだろうなぁ。

 イルティミナさんから、虹色の球体を受け取る。

 コロコロ

 手のひらの上で、なんだか申し訳なさそうに転がっている。

 なんか、可愛い。

(……あはは)

 勝手に動作するのは困ったけど、そこに悪意がないのも、なんとなくわかった。

 よし。

「君は、コロと名付けよう」

 僕は言った。

 球体は、ピクと震え、

 コロコロ コロコロ

 なんだか嬉しそうに、手のひらの上を転がりだした。

「もう勝手なことしちゃ駄目だよ?」

 コロン

 頷くように、一転がり。

 うん、これでいい。

 そんな僕らを、イルティミナさんは驚いた顔で見つめて、それから苦笑するように微笑んだ。

「マールは、やはりマールですね」
「?」

 はて、どういう意味だろう?

 キョトンとして、それから僕は、腰ベルトのポーチの中に、虹色の球体――『コロ』を大切にしまった。

(しばらく大人しくしてるんだよ、コロ)

 ポンポン

 軽くポーチを叩いて、そう心の中で命じておく。

 そうして僕は、怪我がなくなった理由も、あれがただの夢ではなかったことも、なんとなくわかった。

 でも、わからないこともある。

「そういえば、あの世界が、イルティミナさんの記憶に基づいているなら……あの竜は何だったんだろう?」

 刺青の女。

 恐らく、300年前の『悪魔の欠片』に生み出された、魔の眷属。

 なぜ、あんなものが出てくるのか。

 イルティミナさんは、僕を抱きながら、首を横に振った。

「わかりません」

 サラサラ

 柔らかな髪の毛が、僕の肌もくすぐる。

「当時のことは、私も深く覚えてはいないのです。……思い出すことも、考えることも拒絶をしてきました。ただ心に焼きついていたのは、白い仮面と黒ローブの集団だけ」
「…………」

 そっか。
 それもしょうがないと思う。

「ですが、こうして過去を目にして思い出せば、確かにあの飛竜(ワイバーン)はいたようにも思います。もしかしたら、あの刺青の女も」

 …………。

(う~ん?)

 もしかしたら『神武具(コロ)』は、イルティミナさんの深層に沈んだ記憶まで、正確に再現したのだろうか?

 もしそうなら、あれは現実にあった過去。

 あの刺青の女も実在する。

(でも、『魔血の民』を根絶しようとする『神血教団ネークス』の教主様が、魔の眷属って……どういうこと?)

 いくら考えても、今は答えはわからなそうだ。

 神血教団ネークスとは、今後も戦いそうな予感がある。

(うん、なら、その時に答えを求めてみよう)

 僕は、そう思った。

 とにかく今は、無事に元の世界に戻ってこれたんだ。

 この森を出て、早くキルトさんたちと合流して――と、そこまで思った時、ふと思い出した。

(そういえば……)

 僕は、彼女を見る。

「あの時、イルティミナさんは何を見たの?」
「え?」

 抱いている僕を見つめ返すイルティミナさん。

 竜車を飛び出す直前、彼女は、窓の外に何かを見つけたようだった。そして、それを追いかけて、この森に入っていったように思えたんだ。

 そう伝えると、

「…………」

 彼女は答えず、ただ穏やかに微笑んだ。

 でも、どこか悲しそうな笑顔にも見えて、それ以上は、僕には聞けなかった。

 僕を抱いていた腕を、イルティミナさんは解放する。

 それから、彼女は立ち上がると、

「ここからなら、数時間で辿り着けるでしょうか」

 と夜空を見上げながら、呟いた。

(辿り着ける……?)

 キョトンとなる僕に、彼女は、白い左手を差し出した。 

「マールも、一緒に行ってくれませんか?」
「……どこへ?」

 その手を握りながら、訊ねる。

 イルティミナさんは、僕を引っ張り起こしてくれた。

 キュッ

 繋いだ指に、少しだけ強い力が入った。

 そして、彼女は口にする。

「――滅んでしまった、ルド村へ」


 ◇◇◇◇◇◇◇


 月明かりを頼りに、僕らは手を繋いだまま、夜の森を歩いていった。

 およそ3時間。

 僕らは、あの茂みに隠された洞窟前へとやって来る。

(……塞がってるね)

 ルド村への入り口は、崩落した岩によって埋まっていた。

 精神世界であった通り、7年前の現実世界でも、オルティマさんたちは、村を守るために洞窟を爆破したのだろう。

 そして今は、その岩肌には、植物の蔓や苔などが生えている。

 7年の歳月。

 それを感じさせた。

「行きましょう」
「うん」

 僕らは、飛竜が破壊した岩山を――神血教団ネークスが村へと侵入した場所を目指して、夜の山中を移動する。

 やがて、大きく崩落した岩場を発見。

 前に『トグルの断崖』を登った時のように、僕はイルティミナさんに背負われ、その岩山の崩落した場所から、村のあった草原へと降り立った。

 その背中から降りる。

「…………」
「…………」

 僕らは、無言だった。

 目の前には、滅びた村の跡が広がっている。

 たくさんの民家の燃え残った残骸。

 燃えた草原。

 焦げた土。 

 そして、月光に白く照らされる人の骨。

(……あぁ)

 精神世界で見た、ルド村の人たちの笑顔が思い出される。

 ギュッ

 繋いでいるイルティミナさんの指に、痛いほどの力がこもった。

 白い美貌は、少し強張っている。

 でも、前のように、心と体調まで壊してしまうほど、酷い状態にはならなかった。

(…………)

 現実世界では、皆、助からなかった。

 骨の中には、この7年の間に、森の動物に食べられてしまったような跡もある。

 僕は、唇を噛んだ。

「みんなを埋葬しよう?」
「……はい」

 イルティミナさんは、静かに頷いた。

 僕らは、廃墟となった村中を歩いて、村人たちの骨を拾い集めていった。

 そして、ふと気づいたこと。

 精神世界で、僕と飛竜の戦闘で破壊してしまった家屋が、現実世界では、まだ形を残していた。燃えてはいたけれど、崩れていない。

(やっぱり、現実とは違うんだね)

 あれは幻の世界。

 わかっていたけど、改めて、そう思った。

(……あのあと、精神世界で救われたルド村の人たちは、どうなったのかな?)

 幻だとわかっていても、せめて、あの人たちだけでも笑顔でいて欲しい……そう願ってしまう。

 集めた骨は、やがて持ちきれなくなった。

 村の見晴らしの良い場所に置いて、また2人で集めに行く。

 何回か繰り返した。

 その途中で、イルティミナさんが静かな声で教えてくれた。

「……現実では、私たち姉妹は、ルド村の大人たちが抵抗している間に、森へと逃がされました」

 姉妹だけではない。

 他にもいた10代の女の子が2人、一緒に森へと逃がされたそうだ。
 でも、

「2人とも、追っ手の矢に刺さって死にました」
「…………」
「まだ息はありましたが、私はソルを抱えたまま、彼女たちを見捨てて、逃げてしまいました」

 深い後悔の声。

 でも、当時13歳だった女の子に、それ以外の何ができただろう?

 幼い妹もいる。

「イルティミナさんは何も悪くないよ。悪いのは、神血教団ネークスの人たちだ」

 僕は、はっきり言った。

 でも、彼女は、ただ悲しげに微笑むだけだった。

 そのあと、イルティミナさん自身にも、何本もの矢が刺さったそうだ。

 それでも、足は緩めなかった。

 死の恐怖と、腕の中にある妹の温もりが、止まることを許さなかったのだ。

 激痛に苛まれながら、森の中を一昼夜、必死に走り続けた。

 やがて、街道に出たところで限界を迎えて力尽き、そして倒れていたところを、通りかかったキルトさんたちに発見され、保護されたんだそうだ。

「……その時、矢の刺さった位置が悪く、また血を流しすぎました」

 自らの下腹部に手を当てて、彼女は、吐息のようにこぼした。

(…………)

 子が産めない身体。

 精神世界の追体験で、イルティミナさんのトラウマは解消できても、その現実は変えられない。

 思わず、俯いていると、

「ですが、今の私にはマールがいますから」

(……え?)

 顔を上げた。

 イルティミナさんは透き通った微笑みを浮かべながら、その真紅の瞳に深い信頼を込めて、僕を見つめていた。

(あ……)

 心の芯に、熱が灯った気がした。

「うん!」

 僕は大きく頷く。

 イルティミナさんは、嬉しそうにはにかんだ。

 そうして僕らは、ルド村の人たちの骨を、見つけられる限り全て集めた。

 家屋の残骸を使って、穴を掘る。

 大人1人が横になって入れるような、大きな穴だ。

 そこに集めた骨を納め、丁寧に土をかけていく。

「…………」
「…………」

 全てが終わった僕らは、胸の前で両手を合わせて、黙祷した。

 涼やかな夜の風が、僕らの肌を撫でていく。

 ふと目を開けた。

 隣を見たら、イルティミナさんはまだ目を閉じていた。その目尻から、一筋の涙がこぼれる。

(…………)

 いけないものを見た気がして、僕は上を向いた。

 夜空には、ただ美しい紅白の月が輝き、地上にたたずむ僕ら2人を、いつまでも柔らかく照らしていた――。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 夜の森を歩き回るのは危険なので、僕らは、このルド村で一夜を明かすことにした。

 焚き火を灯し、そばに座る。

 2人とも薄い部屋着のままだったので、夜の空気は少し肌寒い。

 イルティミナさんは、僕を背中側から抱くようにしてくれて、密着してお互いの体温を逃さないようにしてくれた。

 パチパチッ

 焚き火が弾け、火の粉が舞う。

 ここは、かつてのイルティミナさんの家の前だった。ただ今は、家は燃えて崩れ、黒く焦げた木材の残骸が残っているだけだったけれど。

 僕ら2人は、その前の空間で、焚き火に当たっている。

(……なんだか懐かしいね)

 精神世界では、少女がここで木彫りを作っていた。

 数日前のことなのに、感覚的には、なぜか遠い昔のように感じている。

「……あ?」

 僕は、ハッと気づいた。

 慌てて、腰ベルトのポーチを探る。

 ない。
 やっぱり、ない。

「どうしました、マール?」

 気づいたイルティミナさんが声をかけてくる。

 僕は肩を落とし、落胆しながら答えた。

「……木彫りの鷹、なくなっちゃった」
「え?」
「ほら……13歳のイルティミナさんに、河原で掘ってもらったこと、あったでしょ?」

 あれは精神世界での出来事。

 現実世界に、木彫りの鷹がないのは当然なんだ。

 当然、なんだけど、

(……あれ、宝物にしようと思ってたのになぁ)

 ガッカリである。

 落ち込む僕に、イルティミナさんは呆気に取られて、それからクスクスと笑いだした。

「マール、剣を貸してもらえますか?」
「?」

 素直に渡す。

 受け取った彼女は、家の残骸の中から、適当な大きさに木材を切り取って、戻ってくる。

 そして、また密着して座った。

「久しぶりなので、上手くできるかわかりませんけれど」

 そう笑いながら、

 カッ カシッ

『妖精の剣』の刃を巧みに使いながら、木片を削っていく。

(あ……)

 あの時のように5分ほどで作業は終わる。

 目の前には、翼を広げて飛び立とうとしている『鷹の木彫り』が出来上がっていた。

「うわぁ」

 目を輝かせる僕。

 イルティミナさんは笑いながら、

「はい、マール」
「いいの?」
「もちろんです」

 前にもらった物とは、少し細部が違ったけれど、でも共通する輪郭と躍動感があった。

(嬉しい……)

 大切に受け取る。

「ありがとう、イルティミナさん!」
「いいえ」

 彼女は、穏やかに微笑んだ。

(今度こそ、宝物にしようっと!)

 焚き火の灯りに照らしながら、僕は、それを色々な角度から眺める。

 イルティミナさんは、そんな僕の姿を、真紅の瞳を細めて、いつまでも眺めていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 それからイルティミナさんは、朝までの時間潰しに、色んな木彫りを彫ってくれた。

 鹿や狼、魚、鳥などなど。

 僕を抱いたまま、僕の身体越しの作業なのに、目の前でそれらが次々と完成していく様は、まるで魔法のようだった。

(イルティミナさんって、もしも冒険者じゃなかったら、木彫りの職人さんになってたかも?)

 そんな風に思った。

 他にも、あの赤牙竜も掘ってくれて、

「やはり、これは難しいですね」

 作業しながら、彼女は、そう楽しそうに笑っていた。

 木彫りを作成しながら、イルティミナさんは、ルド村での思い出もいっぱい話してくれた。

 木彫りを教わったのは、母親のフォルンさんから。

 最初は上手くいかなくて、泣いてばかりだったそうだ。

 妹のソルティスが生まれてから、泣き虫は返上して、『お姉さん』になろうと思ったんだって。 

 父親のオルティマさんは、ずっと尊敬していた。

 村一番の狩人で、誇らしかった。

 でも、毎月、数日間、行商や情報収集で村の外に行ってしまうことが寂しかったそうだ。

(ふぅん?)

 語っている彼女の表情は、まるで、あの少女のようだった。

 そんな中、こんな話題もあった。

 若者たちが村を出たあと、しばらくは、一緒にルド村を出なかったことを後悔したこともあった。

「村を出た皆は、今、どうしているのでしょうね?」

 と、どこか遠い目で語った。

(……ん?)

 その話を聞いた時、僕は、キョトンとなった。

 あれ?

 その人たちは、フォルンさんの話では、『皆、死んでしまった』と聞いている。

 そう伝えると、

「そうなのですか?」

 イルティミナさんは、酷く驚いた顔をした。

 僕も驚いた。

「知らなかったの?」
「はい」

 …………。

 そこで、ふと気づいた。

「イルティミナさん、自分たちの祖先がシュムリアの森で暮らしていたって話は、どこで知ったの?」
「どこ、と言われても……あれは私も初耳で」

 そう答えながら、彼女も気づいた。

 精神世界は、イルティミナさんの記憶に基づいて創られた世界だった。

 それなのに、そこに彼女自身の知らない情報が含まれていた。

(どういうこと?)

 夢のように、ただの空想?

 ――いや、違う。

 よくわからないけれど、僕の中の何かが、あれは空想の話ではないと訴えている。

 イルティミナさんも考え込んでいる。

 と、その時、

(……う?)

 遠い東の空に、光が差した。

 朝日だ。

 夜明けの太陽が、遠い山脈の向こうに顔を出し、眩いばかりの光を、このルド村にも届け始めたのだ。

(眩しい……)

 つい顔を背ける。

 すると、すぐそこにあるイルティミナさんの美貌が目に入った。

 真紅の瞳を見開き、何かに驚いた顔をしている。

(?)

 つられて、もう一度、朝日の方を見た。

 そこに、ルド村の人たちが立っていた。

(…………)

 え?

 僕は呆けた。

 オルティマさんがいた。
 フォルンさんがいた。

 村長さんも、4人の狩人さんもいて、魔熊の肉を一緒に食べた人たちや、顔しか知らない人もいた。

 みんな、笑っていた。

 僕ら2人のことを、離れた場所から見つめていた。

 その身体から、向こう側の景色が透けている。太陽の光が、その身体を貫通している。

 ギュウッ

 イルティミナさんの僕を抱く腕に、力が強く入った。

「…………」
「…………」

 あの少女の両親が、僕へ、深々と頭を下げた。

 そして、大人になった娘には、嬉しそうな、安心したような笑顔を向けていた。

 みんなの笑顔が心に焼きつく。

 フォオオオオ……

 その時、一陣の強い風が吹きつけた。

 僕らは、反射的に目を閉じる。

 すぐに開いた。

 そこには誰もいなくなっていた。

 ただ美しい、太陽の登りゆく景色だけが広がっている。

 草原には、朝靄だけが残っていた。

(……あぁ、そうなんだ?)

 僕は、ようやく気づいた。

 ずっと心配してたんだ。

 自分たちの大事な娘が、村で唯一生き残った少女が、いつまでも過去に囚われ、苦しんでいることを……それを僕だけでなく、みんなも何とかしたいと願っていたんだ。

 だから、

「…………」

 僕はポーチに触れる。

 その中に入っているのは、あの虹色の球体。

 かつて、大迷宮の最下層で、亡くなったアルン騎士300名の姿を生み出した聖なる存在だった。

 それは、きっと死者の魂と感応する能力も秘めているのかもしれない。

(……僕は、本当のルド村の人たちと会ってたんだね)

 そう思った。

 イルティミナさんの横顔を、もう一度、見る。

 彼女は、瞳を細めていた。

 泣きそうな、そして、温かな微笑みを浮かべていた。

 あの竜車を飛び出す直前、彼女が窓の外の森に何(・)を見つけたのか、わかった気がした。

「…………」
「…………」

 僕を抱く白い手に、自分の手を重ねる。

 心が震えていた。

 でも、嬉しかった。

(……よかったね、イルティミナさん)

 心の底から、そう思った。

 そうして、2人でいつまでも、ルド村の人たちが消えた方角を見つめていると、

「マール、イルナ!」
「イルナ姉っ!」

 反対側から、僕らを呼ぶ声が聞こえた。

 振り返る。

 崩壊した岩山の上に、銀髪の美女と紫髪の美少女が立っていた。

 こちらを見つけて、そこを降りようとしている。

 どうやら、失踪した僕らを探して、ここまで来てくれたようだった。

 思わず、イルティミナさんと顔を見合わせる。

 同時に笑った。

「行きましょう、マール」
「うん」

 僕らは手を取り合って、立ち上がる。

 過去を振り返る時間は終わり、僕らは未来へと向かうために、共に歩んでくれる仲間の元へと走りだした。

 ――煌めく太陽が、新たな1日の始まる世界を、鮮やかに照らしていた。