174-172. Demon giant



「イルティミナさん!」
「イルナ姉!」

 僕とソルティスの叫びが、地下空間に反響する。

 僕ら2人以外に、この場にいる者たちは全員、唖然とし、ただ突然の美しい乱入者に目が釘付けになっていた。

 その中で、イルティミナさんは、小さく笑った。

 そして、その紅玉の光を宿した瞳をかすかに伏せて、うつむきながら息を吐く。

 次の瞬間、

 タンッ

 その姿が残像を残すような速度で、移動した。

(!?)

 気がついた時には、イルティミナさんの姿は、大切な妹の頭を踏みつける犯罪組織のリーダーの男のすぐ目の前に到達していた。

「な……!?」

 リーダーの男は、慌てて曲刀を構える。

 ガィン

 神速で薙ぎ払われた槍の1撃を、構えた曲刀が辛うじて受け止め、けれど、凄まじい威力でリーダーの男は吹き飛ばされた。

 ズシャアア

「くっ!」

 床を転がり、慌てて立ち上がる。

 その時にはもう、イルティミナさんの姿は、空中高くへと跳んでいた。

(……あ)

 綺麗な放物線を描いて着地をしたのは、5人の女の子たちを捕まえている複数の男たちの中心だった。

 驚愕する男たち。

 ヒュオン

 イルティミナさんの手にあった白い槍が、彼女を中心に、円を描くように1回転する。

 一拍の間を置いて、女の子を拘束していた男たち全員の腕が、手首から切断されて、床へと落ちた。

「い……っ!?」
「ぎゃ!?」
「ぐがぁああ!?」

 凄まじい激痛に男たちが呻き、真っ赤な鮮血が撒き散らされる。

 床を転げまわる男たちの中央で、イルティミナさんだけは、長い髪をなびかせる美しい立ち姿のままだった。

 目の前の惨劇に、ポーちゃん以外の4人の女の子たちは、座り込む。

「マール、ソル」

 イルティミナさんが僕ら2人の名を呼びながら、何かを投げてよこした。

(え?)

 パシッ

 慌てて受け取る。

 それは、鞘に納められた片刃の短剣だった。

(あ……)

 これは、僕が今日、ベナス防具店で購入したばかりの短剣だ。

 視線を送れば、ソルティスの手には、あの魔法石のついた大きな杖が渡されている。

 僕らは、イルティミナさんを見た。

 彼女は頷いた。

「さぁ、2人とも、このまま一気に終わらせてしまいますよ」

 力強く笑って、そう宣言する。

「うん!」
「やってやるわ!」

 武装を取り戻した僕ら2人は、頼もしき『銀印の魔狩人』様のご所望に、大きく頷きを返すのだった。


 ◇◇◇◇◇◇◇


「……なるほど。お前は、なかなか腕が立ちそうだな」

 戦意を高揚させる僕らに対して、犯罪組織のリーダーの男が、曲刀を片手に鋭い眼光を向けてくる。

 僕は、イルティミナさんの横で、鞘から短剣を抜き、素早く構えた。

 ソルティスも大杖を構える。

 ただ1人、イルティミナさんだけは構えもせずに、静かな眼差しで相手を見つめ返す。

 リーダーの男は、両手を広げた。

「だが、たかが1人の増援が何になる? まさか、この人数を相手に勝てると思っているのか?」

 その声には、余裕があった。

 彼の背後には、まだ20人以上の武装した部下の男たちがいる。

 他にも、黒いローブの老人を始めとした、王立魔法院を追放された10人の魔学者たちも、魔法の発動体の指輪を輝かせている。

 更に、彼らの操る強力なゴーレムたちは、10体も存在していた。

(…………)

 確かに、油断はできない。

 イルティミナさんがいるとしても、相手も戦力的には、まだまだ力を残していた。

 加えて、こちらには『女の子たちを守る』という制約もあった。

 僕ら3人だけで、彼女たち5人を護衛しながら、これだけの戦力と戦うのは、やはり厳しい状況だと思えたんだ。

(せめて、もう少し味方がいれば……)

 そう心の中で求めた時、

「私が1人でここに来たと思っているのですか?」

 イルティミナさんが静かに答えた。

(え……?)

「何?」

 リーダーの男も眉をひそめる。

「そもそも、なぜ、私がここに来れたと思っているのです?」
「…………」
「この地図のおかげですよ」

 ヒラッ

 イルティミナさんの指から放たれ、リーダーの男の前へと、揺らめきながら落ちる1枚の紙。

(あれは……まさか!?)

 僕とソルティスは、同時に気づく。

 思わず見上げる先で、イルティミナさんは大きく頷いた。

「ここに捕らわれていた娘たちが、脱出した地上で発光信号弾を撃ちました。それを見つけて、私たちは彼女たちと出会い、この場所に来れたのです」

 ……あぁ。

(それじゃあ、あの14人の女の子たちは、無事に外に出られたんだね)

 よかった。

 その事実に泣きそうになる。

 イルティミナさんは、そんな僕へと優しく微笑みかけ、それから、犯罪組織の男たちを見つめた。

「娘たちは無事、保護されました。そして、王都の衛兵たちも、間もなくここに来るはずです」
「……っ、衛兵どもが!」

 リーダーの男は舌打ちする。

 集まっていた部下の男たちも、動揺を隠せない様子だった。

「お前たちは、まさに袋の鼠」

 イルティミナさんの冷徹な声が、暗い下水道内に静かに響く。

 彼女を中心に、冷たい冬のような殺意の気配が広がり、この地下の空間全体に満ちていく。

 部下の男たちの何人かが後ずさった。

「じ、冗談じゃねえ」
「こんなところに、いつまでもいられるか!」

 そのまま、身を翻して逃げようとして、

「逃がしません。――アスベル、ガリオン!」

 イルティミナさんが鋭く叫んだ。

「はい!」
「おうよ!」

 声に呼応して、彼らが逃げようとした通路の暗闇から『青印の冒険者』2人が飛び出し、長剣と戦斧を閃かせた。

 ザシュッ ズガン

 逃げようとした男たちは、血飛沫を上げて、その場に倒れた。

(アスベルさん、ガリオンさん!?)

 驚く僕とソルティス。

 彼らは、そんな僕らを見つけて、頼もしい笑顔を見せてくれた。

「無事だったか、マール、ソル!」
「はっ……よくやったぜ、クソ餓鬼ども! あとは俺らに任せな!」

 ビシュッ ドジャンッ

 目の前にいる男たちを、彼らの武器が次々に倒していく。

 イルティミナさんが伏兵として、2人を配置していたのだろう。

(……あぁ)

 かつては『血なし者』と蔑まれたこともあった自分のために、今はこうして、命懸けで助けに来てくれた。

 その2人の姿に、胸が熱くなる。

 イルティミナさんが、その戦いの様子を見つめながら、美しい声で、男たちに冷たく告げる。

「さぁ、終わりの時間です」
「…………」

 リーダーの男は、唇を震わせる。

 そして、叫んだ。

「ふざけるな! たかが3人増えただけのことだ。こいつら全員殺して、衛兵どもが来る前にここをずらかるぞ!」

 貯水槽内に、裂帛の気合が木霊する。

 その声に、部下の男たちも戦意を取り戻し、追い詰められた者特有の表情で、それぞれの武器を構えた。

 イルティミナさんも、初めて、白い槍を構える。

「さぁ、マール、ソル、行きますよ」
「うん」
「えぇ!」

 彼女の声に応えて、僕らは一斉に動きだした。


 ◇◇◇◇◇◇◇


『神体モード』は終わってしまったけれど、僕の手には、新しい短剣があった。

 ギュッ

 それを握り締め、近くのゴーレムへと走る。

 その接近に反応して、ゴーレムの巨大な拳が僕を襲った。

 ――極限集中。

(かわせ、マール!)

 灰色の世界の中で、僕は、その拳を紙一重で回避し、そのまま反撃の剣技を繰り出した。

「やっ!」

 ヒュコン

 ゴーレムの膝関節を、短剣で見事に切断する。

(!)

 その瞬間、この手にしている短剣の素晴らしさに気づいて、思わず感動してしまった。

(この短剣、すっごくいい!)

 かつて使っていた『マールの牙』と似た短剣。

 けれど、その切れ味は比べ物にならないほどに鋭くて、刃の伝える耐久力も高そうだった。

 その上、軽さは変わらない。

 さすがに『妖精の剣』ほどのリーチや強度はないけれど、その20分の1の値段を考えたら、恐ろしいほどのお買い得品だと思えた。

(ベナスさん、本当に凄腕の鍛冶師さんだったんだね!)

 今更ながら、それを知る僕である。

 そして僕は、その短剣の心地好さに酔いしれながら、ゴーレムたちの中で、踊るように短剣を振っていく。

 ヒュコン ヒュココン

 石でできた頑丈な腕が、足が、次々と切断されていく。

(た、楽しい……っ!)

 戦いというものを、初めて、そう感じた気がする。

(よし、決めた!)

 君の名前は、『マールの牙・弐号』だ!

 新しい僕の牙となった短剣は、鋭い銀光を放ちながら、この小さな手によって踊り続ける。

「ほう」

 そんな僕の姿に、イルティミナさんが感心したような呟きを漏らしていた。

 気づいたら、アスベルさんとガリオンさんも、驚いたように目を見開いている。

「おい……あれは、本当にマールなのか?」
「くそっ! あの餓鬼、しばらく見ない間に、また一段と強くなってやがる!」

 アスベルさんは唖然とし、ガリオンさんは舌打ちする。

 黒いローブの男たちは、愕然としたように、自分たちの魔法で生みだしたゴーレムたちが破壊されていくのを見ていた。

「お、おのれ!」
「これ以上、やらせはせんぞ!」

 彼らは、その指に嵌められた魔法の発動体の指輪を輝かせた。

 その寸前、

「あんたたちこそ、やらせないわよ!」

 大杖の魔法石を赤く輝かせたソルティスが、それを空中に走らせ、タナトス魔法文字を描きだす。

「この空間に舞い踊れ! ――フラィム・バ・トフィン!」

 美しい詠唱。

 それに呼応して、赤いタナトス魔法文字から、あの炎の蝶たちが無数に飛び出してきた。

 ドパッ ドパパパパァン

「ぎゃっ!?」
「ぐぉおお!」
「ひ、ひぃいい……っ!」

 黒いローブの男たちが爆発に巻き込まれる。

 その手が弾けて、指輪のはまった指が飛び、黒いローブが燃えていく。

 負傷した男たちは、あまりの痛みに床の上を転げ回った。

「ぬぅぅ」

 黒ローブの老人が唸る。

 その間、イルティミナさんは戦局を眺めながら、5人の女の子たちのそばを離れずに、護衛に徹していた。

 と、そこに犯罪組織のリーダーの男が襲いかかった。

「りゃああっ!」
「!」

 ガギィン

 振り下ろされた曲刀を、白い槍が弾き返し、火花が散る。

「どうやら、この場で一番、腕が立つのは貴様のようだ」
「…………」
「ならば、まずは貴様を倒し、お前の仲間たちの戦意を崩してやろう!」

 リーダーの男は不敵に笑い、またイルティミナさんに挑みかかった。

 ヒュッ キンッ ギギンッ

 まるで嵐のような曲刀の攻撃が、彼女へと襲いかかる。

(!)

 あの人、強い!

 その速さ、その威力、その剣技は、『魔血の民』としての能力を完全に生かして繰り出される剣撃だった。

 単純な強さは、今の僕よりも上かもしれない。

 伊達に、30人以上の荒くれ者を束ねる人物ではなかった。

 それほどの凄まじい猛攻。

(……けど)

 それでも、相手が悪かった。

 彼が立ち向かっているのは、あの銀印の魔狩人イルティミナ・ウォンだった。

 シュッ ヒュン

 嵐のような剣を、彼女は、その場から1歩も動かずにかわしている。

「…………」
「……ちいっ!」

 リーダーの男の顔に、苛立ちが生まれた。

 ガィン

 振り下ろされた曲刀を、白い槍が受け止める。

 イルティミナさんの美貌と、リーダーの男の粗野な顔が、至近距離で睨み合った。

 その瞬間、

 プッ

「!」

 男の口が細められ、そこから、細い針が飛び出した。

(吹き矢!?)

 貧民街で培われた強さは、やはり真っ当な技ばかりではない。

 イルティミナさんは、ここで初めて、少しだけ驚いた表情を見せた。

 正確に右目を狙ったそれを、彼女は、瞬きもせずに見つめたまま、凄まじい速さで首を捻って回避する。

 一瞬の防戦。

 その隙に、リーダーの男は半歩下がり、

「しゃあ!」

 今までで一番速い、弾丸のような刺突を繰り出した。

 まずい!

 それを見た僕は、その剣が、そのままイルティミナさんの心臓を貫いてしまうと思った。

「――――」

 瞬間、イルティミナさんの真紅の瞳が輝き、手にした白い槍が霞んだ。

 シュオオンッ

 直後、リーダーの男の動きが止まる。

 強制的に止められたような、不自然な停止の仕方だった。

 次の瞬間、リーダーの男の手足に裂傷が生まれて、鮮血が噴き出した。

 手にしていた曲刀が粉々に砕けて、床に落ちる。

(は……?)

 僕は、呆気に取られた。

 リーダーの男は、床に倒れる。

 あまりの激痛に、倒れる前から意識を失っていたのだと、すぐに気づいた。

「…………」

 ヒュンッ

 槍を払うイルティミナさん。

 その先端の刃から、赤い血が跳んでいる。

 どうやら、イルティミナさんの槍がカウンターで、リーダーの男を迎え撃ったのだとは理解した。

(けど……)

 いったい、あの瞬間に何回の攻撃が繰り出されたのかわからない。

 まるで見えなかった。

 少なくとも、左右の手足と曲刀で、5回は攻撃を放っているはずだけど……もしかしたら、それ以上の回数だったのかもしれない。

(イルティミナさん、凄すぎるよ……)

 最近の彼女の強さは、ちょっと神がかりすぎている。

 必死に追いかけているのに、なんだか、どんどん遠くに行かれている気分だった。

 そして、リーダーの男が倒れたことにより、図らずも彼の言葉を逆に体現したように、部下の男たちの戦意が一気に揺らいだ。

「リ、リーダーがやられちまった!?」
「ち、畜生!」
「これ以上、やってられるか! 俺は逃げるぞ!」
「お、俺だって!」

 喚き散らしながら、一斉に周囲の通路へと逃げ込んでいく。

(あ、待て!)

 僕とソルティス、アスベルさん、ガリオンさんは、必死に追いかけようとする。

 けれど、

 ガギィン

「!?」

 逃げた通路から、男たちが弾き返されてきた。

「全員、動くな!」

 鋭い声と共に、赤い衣装と鎧に身を包んだ兵士の一団が、その通路の奥から姿を現した。

(シュムリア王国の衛兵さんだ!)

 驚く僕らの前で、衛兵さんたちは、男たちを包囲し、完全に逃げ道を塞いでいる。

 衛兵さんたちに剣を突きつけられ、男たちは曲刀を捨てる。

 それを見つめ、イルティミナさんが頷いた。

「これで、詰み、ですね」

 静かな一言。

 衛兵たちは、すぐに抵抗を諦めた男たちを捕縛していく。

「…………」
「…………」
「…………」

 その間、残されたのは、部屋に隅に集まっていた、あの数人の黒ローブの集団のみだ。

 彼らの周囲には、ゴーレムの石の破片や、負傷した男たちの血痕、肉片、そして、何人もの死体だけがある。

 黒いローブの老人は、その光景を見つめた。

「……ふざけるな」

 濁った瞳には、憤怒の光があった。 

「またか? 深奥なる知識の探究を、またも犠牲を恐れる臆病な者たちに阻まれるというのか?」

 黄ばんだ歯を食い縛り、呻くような声が漏れる。

「許せん。許されん」
「…………」
「これ以上の無知蒙昧なる愚挙を、許すわけにはいかん。……例え、この命を賭しても、未知なる世界の扉は開かれねばならんのだ!」

 ブチッ

 叫んだ老人は、突然、その手首を噛み千切った。

 動脈を切ったのか、大量の血液が床に撒き散らされる。

「師父、お供します!」
「我らの命をもって、世界の深奥に触れましょうぞ!」

 ブチッ ブチチッ

 生き残った黒ローブの男たちは、次々に手首を噛み千切り、その血を床に散らした。

 あまりの事態に、僕らは唖然としていた。

 衛兵さんたちが止めようとする。

 でも、その寸前、誰よりも早くソルティスが気づいた。

「やばっ! こいつら、自分を生贄にして、魔法陣を発動しようとしてるんだわ!」

(は……?)

 意味を理解した僕らは、足元にある床の魔法陣が、彼らの血を吸い、紫色に輝いていくのを見た。

 禍々しい光。

 それは、悪魔の魔力と呼ばれる『闇のオーラ』と同じ色だった。

 ソルティスが、幼い美貌を引き攣らせる。

「駄目! 間に合わない! 全員、魔法陣の外に出て! 早くっ!」

 悲痛な叫び。

 イルティミナさんが3人の女の子を、アスベルさん、ガリオンさんがそれぞれ女の子1人ずつを抱えて、跳躍する。

 僕とソルティスも、必死に走って、魔法陣の外に出た。

 衛兵さんたちも走る。

 けれど、数人が間に合わなかった。

 ジュオッ

 まるで高熱に溶けるように、魔法陣の中で黒い影となって消えていく。

(っっっ)

 同じように、黒いローブの男たちも、次々と消えていく。

 王立魔法院を追放された魔学者たちは、己の命をかけてまで、自分たちの探究してきた成果を、この世界に残そうとしていた。

「ふは、ふははは……我は、深奥の欠片を見つけたり!」

 濁った瞳に、子供のような煌めく光を宿して、魔法陣の中心に立った老人は叫んだ。

 叫んだ瞬間、

 ジュオッ

 その姿も黒い影となって、溶けるように消えた。

 魔法陣の中には、誰もいなくなった。

「…………」
「…………」
「…………」

 静かだった。

 僕らは茫然としながらも、光を放つ魔法陣を見つめ続けた。

 けれど、魔法陣には何の変化もないように思えて、王都の衛兵さんの1人が近づいていく。

 その瞬間だった。

 ドンッ

 黒い影のような巨大な手が、その衛兵さんを叩き潰した。 

 肉片が散り、鮮血が床に広がる。

 巨大な手は、魔法陣の中から伸びていた。

 ズズズ……ッ

 巨大な腕は、もう1本伸びて床に落ち、そこに繋がる巨体を、魔法陣の中から引き上げていく。

 やがて現れたのは、黒い靄のように揺らめく巨人だった。

 身長は、5メードほど。

 頭部には、血のような赤い眼球が2つあり、丸い口がある。腹部にも縦に裂け目があり、大きな牙の生えた口が備わっていた。

 漆黒の肉体は、けれど半透明で、輪郭が安定しない。

 まるで黒い水か、煙で、肉体ができているみたいだった。

(…………)

 僕は声もなく、その巨体を見上げていた。

「な、なんなんだ、コイツは……?」

 アスベルさんの声が、遠く聞こえた。

 あの戦闘狂であるガリオンさんも、青い顔で戦斧を構えている。

 唯一、知識のある少女が、震える声で答えた。

「魔界の生物よ。……悪魔ではないけれど、悪魔と同じ環境で育った生命体……。くそっ……なんて凄まじい魔力なのよっ」

 ソルティスは、まるで泣きそうな顔だ。

 でも、わかる。

 この異形の怪物からは、凄まじい『圧』が感じられるんだ。

(……魔界生物……これがっ)

 と、その黒い巨人がゆっくりと、衛兵さんたちの方へと動いた。

 ヌルン

 突然、その腕が粘液みたいに伸びて、巨大な手で衛兵さんたちを握った。

「う、うわ!?」
「な、なな……ぎ、がぁ!?」

 ジュオッ

 手の中で、衛兵さんたちの肉体が溶けた。

(なっ!?)

 イルティミナさんの表情が険しくなる。

「これはいけません」

 彼女は手にした白い槍を逆手に持ち、大きく振り被った。

 カシャン

 翼飾りが開き、美しい刃と紅い魔法石が覗く。

 真紅の瞳と魔法石が同調して、同じ紅い輝きを満たしていく。

 そして、

「シィッ!」

 キュボッ

 白い槍による必殺の投擲が繰り出された。

 それは狙い違わず、黒い巨人の『魔界生物』へと直撃して、

 シュオ……

 その体内を、そのまま通り過ぎた。

「……は?」
「嘘」

 僕とソルティスは、今見た光景が信じられず、思わず声を同時に漏らす。

 イルティミナさんの表情も、かなり険しくなる。

 白い槍は、標的を貫通したあと、またイルティミナさんの手に戻ってくる。

 そして、彼女は呟く。

「どうやら、あの肉体には、物理攻撃が通じないようですね」

 冷静な分析。

 物理攻撃が通じないって、

(そんな訳の分からない生物が、本当に存在するの!?)

 この目で見ておきながら、信じられなかった。

 衛兵の隊長さんらしき人が叫んでいる。

「退避、退避だ! 全員、下がれー!」

 ガシャ ガシャン

 鎧を鳴らし、青ざめながら、衛兵さんたちは後退する。

 あのイルティミナさんさえも、僕らを背中側に押さえながら、ゆっくりと魔界生物から距離を取り始めた。

(……待って、ちょっと待ってよ)

 このまま放置して、もしも、こいつが地上に出たら?

 もし王都ムーリアの中に、現れてしまったら?

 その想像に、僕は恐怖し、青ざめる。

『ルォォオオオオオッ!』

 黒き巨人が咆哮する。

 王都の地下に広がる空間で、その『魔界生物』は、恐るべき闇の力を見せつけ始めた。