188-186. Word and spirit where black and white intersect



 ギギィイ……ッ

 大顎の鋏が、断末魔の軋みをあげる。

 そして、巨大な女王蟻は、全身から緑の血液を撒き散らして、地面へと崩れ落ちた。

 ズズゥン

 重そうな地響き。

 その巨体の羽根は斬り裂かれ、胴体にも深い傷が刻まれ、何本かの足は千切れかかっている。

 トン

 その正面に、その美しい人は着地した。

 深緑色の艶やかな長い髪が、ふんわりと背中に落ちていく。

 手にした槍をヒュンと振るえば、魔物の血が払われて、地面に緑色の水玉が散った。

「ふぅぅ」

 熱そうな吐息。

 けれど、その身体には掠り傷1つない。

(やっぱり凄いや、イルティミナさん)

『女王蟻』と新しい『金印の魔狩人』の対決は、『金印の魔狩人』の圧勝だった。

 霞むような速さで動くイルティミナさんに、女王蟻は、為す術もなく一方的に斬り刻まれ、絶命してしまった。

 考えたら、彼女は、赤牙竜にも勝っている。

 精神世界でも、仇のワイバーンを圧倒して、倒していた。

 竜種に劣るだろう個体を相手に、イルティミナさんが負けるはずもなかったのだ。

「見事じゃ」

 キルトさんも、納得の表情で頷いている。

 ソルティスも「さすが、イルナ姉!」と得意げだった。

 僕も笑った。

「やったね、イルティミナさん」

 その声に気づいて、彼女はこちらを見ると、はにかむように笑った。

 けれど、その表情はすぐに引き締まる。

「さぁ、地上に脱出しましょう」
「うん」

 僕は頷いて、背中の翼を虹色に輝かせた。

 ヴォオン

 幸いにして、この空間に通じる3つの穴から、新しい巨大蟻は出てきていない。

 今がチャンスだ。

 空気穴の真下に移動すると、3人がしがみついてくる。

 ムギュ ムニニッ

(…………)

 よ、よし、行くぞ!

 色々と押し殺して、僕は、金属の翼を大きく広げ、羽ばたかせた。

 バフッ

 砂埃を舞わせながら、急上昇。

 そのまま空気穴へと飛び込んだ。

 ヒュオオ……

 空気を裂いて、地上を目指す。

(ん……?)

 と、すぐ目の前にあるキルトさんの表情が、眼下を見たまま、曇っていることに気づいた。

「……思ったより、増援が来なかったの」

 その唇が、ポツリと呟く。

(……え?)

「女王蟻の危機じゃ。もっと巨大蟻が殺到すると思っておったのじゃが……」

 そういえば、

(僕の方からは、結局、5体ぐらいしか来なかったね)

 キルトさんやソルティスの倒した数も、それほどではなかったように思う。

 死骸は、10体もなかったから。

「巣が広がり過ぎて、女王のところは手薄になっていたか? しかし、どうも腑に落ちぬ」
「…………」
「…………」
「…………」
「まぁ良い。考えるのも、まずは地上に出てからじゃ」

 そうして顔を上げれば、僕らの進路上に、強い光がある。

 地上への出口だ。

 バヒュ……ッ

 空気をまとわせながら、一気に穴を抜ける。

 勢いのままに、10メードほどの高さまで飛び出し、そのまま滞空した。

 雪の積もった山脈と、そこから見える雪の大地の景色。

 結構、いい眺めだ。

(……あれ?)

 視線を落として、ふと気づく。

 空気穴のそばに、案内してくれた隊長さんの姿がなかった。

 いや、そればかりか、少し離れた場所にある『妖精の郷』のストーンサークルたちの並んだそこにも、テテトの兵士さんや冒険者さんたちの姿が見えなかった。

「……誰もいない」
「え?」
「む?」
「は?」

 僕の言葉に、3人も気づく。

 地上へと着地する。

 雪の大地を踏みしめ、僕から3人が離れていく。

 みんなで、四方を見回した。

「本当だわ。誰もいないじゃないの」

 ソルティスが唖然と呟く。

 イルティミナさんは、しゃがんで、足元の雪を確かめる。

「……争った形跡はありませんね」

 キルトさんは、黄金の瞳を細めて、周囲を見ている。

 その表情は、少し険しい。

「……何があったか確かめるぞ。皆、油断するな」

『雷の大剣』の柄に手をかけ、そう警告した。

 僕らも頷き、それぞれの武器を手にして、辺りに視線を走らせる。

 1歩を踏み出した時、

 ゾワッ

(!?)

 胸の奥が締め付けられ、背筋が震えるような感覚に襲われた。

「!」
「!」

 ガシャッ ザッ

 ほぼ同時に、キルトさんとイルティミナさんが武器を構えて、同じ方向へと構えた。

 僕も『妖精の剣』をそちらに向けた。

 ソルティスだけはキョトンとして、慌てて、大杖をそちらに向ける。

(…………)

 目の前にあるのは、樹氷のできた木々の森だ。

 奥までは見えない。

 その白い世界にある闇の部分に、『何か』がいる。

 そう感じる。

 それにしても、この重苦しい空気はなんだ?

(この圧迫感は、前にもあった。……でも、それは)

 それは、ケラ砂漠の夜。

 あの邂逅の時だ。

 まさか。

 まさか……。

 サクッ

 白い世界に、闇の中から、黒く小さな姿が1歩、足を踏み出した。

 木の陰から、現れた少年が1人。

 僕らは、表情を強張らせた。

 黒い髪に、黒い肌。

 口元には、三日月のような赤い笑み。

「やぁ」

 少年は、怖気の走るような声で、気軽に声をかけてくる。

 雪の大地に現れた、黒の子供。

 遠いテテトの大地において、あの『闇の子』が、僕らのすぐ目の前に立っていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 明るい陽の光の下で『その存在』を見るのは、僕は初めてだった。

 身長や外見年齢は、13歳の僕と同じぐらい。

 黒髪に、黒い肌。

 着ている物も、黒い服だ。
 寒さを感じないのか、結構、薄着で見ている方が寒くなる。

 何よりも、その瞳。

(初めて、見た……)

 白目の部分さえ漆黒で塗り潰された、恐ろしい眼だった。

 まるで、どこまでも続く闇。

 それは今、呆然とする僕ら4人へと向けられている。

「人間(キミ)たちの言語を覚えてみたんだ。ちゃんと通じているよね?」

 彼は、そう笑った。

 その声を聞いているだけで、首に刃物が押しつけられているような不快感と不安感がある。

(…………)

 ギュウウッ

 僕は『妖精の剣』を持つ手に、力を込めた。

 爆発する寸前のように、足には力が溜まっている――いつでも、襲いかかれるように。

 殺したい。

『神狗』の魂が、そう叫ぶ。

 けれど、これまでの戦いの経験で、そうしてはいけない予感がする。

 今はまだ、耐える時間だ。

 その時、

「…………」

 ザッ

 金印の魔狩人キルト・アマンデスが無表情のまま、剣の柄に手を当てたまま、1歩を踏み出した。

 彼女から強い『圧』が放たれる。

 ザザザァアッ

 雪の世界に、冷たい風が吹いた。

(!)

 周囲の木陰から、無数の闇が現れた。

 タナトス魔法文字をその肉体に刻んだ、刺青の男女たち。

 隠れていた『闇の子』の護衛たちは、キルトさんの剣気に当てられて、思わず、その姿を現してしまったんだ。

「やはりな」

 罠を見破ったキルトさんは、瞳だけで周囲を確認する。

 刺青の男女の数は、12人。

 僕ら4人を、グルリと囲むような位置にいる。

(これは……まずいかも)

 かなりの戦力差。

 キルトさんやイルティミナさんの表情は厳しく、ソルティスの幼い美貌は青ざめている。

 そして、僕らの正面にいる『闇の子』は、刺青の男女を見回して苦笑した。

「やれやれ、出てきては駄目だと言っておいたのにな」
「申し訳ありません」

 そばにいた刺青の男が、頭を下げる。

 けれど、『闇の子』を守るため、いつでも動ける体勢だった。

「まぁ、いいよ。……でも、これ以上、勝手なことをしては駄目だよ?」

 声に秘められた闇が、濃くなった気がする。

 男は震え、「はっ」と首肯した。

 その声に応えるように、刺青の男女は全員、そのまま不動になる。

『闇の子』は、改めて僕らを見る。

 そして、笑った。

「安心して。彼らには手を出させない」

 …………。

「今日は、戦いに来たんじゃない。ボクは、君たちと話がしたかったんだ」

(話……だって?)

 有り得ない言葉に、僕らは唖然となった。

 その表情を楽し気に見つめて、彼は続けた。

「そう。――ボクはね、君たち人類と停戦協定を結びたいんだよ」


 ◇◇◇◇◇◇◇


 停戦……協定?

「ふざけるな」

 思わず、僕は答えていた。

 震える足が、勝手に1歩、前に出る。

 その殺気に反応して、周囲の刺青の男女が動こうとした。

 でも、『闇の子』の一睨みで、動きを停める。

 そして、彼は言った。

「やぁ、マール」
「…………」
「突然変異の『神の子』、君のことは、とても興味深く思っていたよ」

 嬉しそうな声。

 それに対する僕の声には、怒りの炎が宿っていた。

「僕は、お前を殺したく思っているよ」

 お前のせいで、何人の罪もない人々が殺された?

 何人が、魔物にされた?

 それを……今更、停戦協定だと!?

「そうかもね。でも、君はボクを殺さない」
「……何?」
「神狗アークインならば、殺しただろうね。でも『マール』は、殺さない。君は、そういう性(さが)を持っている。そうだろう?」

 ……わかったようなことを。

 それが間違いだと思い知らせてやる。

「君が動けば、周りの3人も死ぬよ?」
「!」

 刺青の男女は、黙(もく)したままだ。

「それに、これ以上の人類の犠牲を減らせる可能性を、君は無視できないはずだ」
「…………」
「だって『マール』は、とても優しいからね」

 褒めるというよりは、窘めるような口調。

 手足が震えた。

 けれど、それ以上、『闇の子』に襲いかかれないのも事実だった。

「マール……」

 イルティミナさんの気遣わしげな声がする。

 それが聞こえた瞬間、

「わかった」

 理性を取り戻して、僕は、自分の中の感情を抑えることに成功した。

「話すだけ話しなよ。どうするかは、それから決める」

『闇の子』は赤い三日月のような笑みを浮かべて、嬉しそうに頷いた。

「そう答えてくれると信じていたよ、マール」

 そう言って、彼は迷った顔をする。

「さて、何から話そうかな? ……うん、まずは、ボクらには『共通の敵』がいるという認識を共有させようか」

(共通の敵?)

 僕らは4人とも、怪訝な顔をする。

 その目の前で彼は、少しだけ表情を消して、その名を口にする。

「この地上にいる6体の『悪魔』のことさ」

 と。


 ◇◇◇◇◇◇◇


(悪魔って……)

「封印された悪魔のこと!?」

 思わず、そう叫んだのはソルティスだ。

 彼は「うん」と頷いた。

「馬鹿な」

 キルトさんが驚きの表情で告げる。

「貴様は、その悪魔から産み出された存在だろう? その目的は『神の封印』を破壊し、親である『悪魔』たちを解放することではないのか?」

(そうだよ。だから、僕らはコキュード地区で戦って……)

 悪魔の解放を狙った彼らによって生まれた『第3の闇の子』も、倒すことになったんだ。

『闇の子』は、そんな僕らを、虚無の黒瞳で見返した。

「そんな目的、誰が言ったの?」
「…………」
「コキュード地区でも、ボクの仲間が言わなかったかい? 『君たちと戦うつもりはない』と」

 ……それは。

 あの黒い飛竜の女が、そう口にしていたけれど。

「あの時、ボクらの仲間の目的はね、その地の『悪魔』を倒すことだったんだよ」

(……は?)

 僕ら4人は、皆、呆けた。

「正確に言うならば、封印を少しだけ破損させて、『悪魔の欠片』を生み出させ、悪魔本体を封印で殺す計画だったんだ。そして、残った『悪魔の欠片』も、ボクらの仲間が始末するつもりだったんだよ」
「…………」
「ボクらの仲間は、そのためにコキュード地区に向かったんだ」

 そんな馬鹿な。

「もちろん、君たちと敵対する可能性も考えてた」
「…………」
「説得に失敗したならば、『悪魔の欠片』を始末する役目は、君たちに押しつけて撤収する。そういう手筈だった。そして君たちは期待通り、ボクらの代わりに『悪魔の欠片』を始末してくれたんだよね」

 …………。

『闇の子』は、虚無の黒い瞳を細く歪めて、笑った。

「だから、ありがとう」

(~~~~)

 お礼を言われても、嬉しくもなんともない。

 感情が荒れ狂って、何も言えなかった。

 あの命懸けの戦いは、あの時に感じた思いは、全て『闇の子』の手のひらで踊らされた結果だったっていうの!?

「マール」

 グッ

 キルトさんが、僕の肩を強く掴んだ。

 その声の力強さに、ハッとする。

 いけない。

 冷静さを失ったら、また『闇の子』に踊らされてしまう。

(落ち着け、マール)

 僕は、大きく深呼吸する。

「ごめん。ありがとう、キルトさん」
「うむ」

 キルトさんは、白い歯を見せて笑った。

 仲間の存在に勇気づけられて、僕は、改めて『闇の子』を見返した。

 彼は「ふぅん?」と、少し感心した顔をする。

「その強い自制の心には、やはり敬意を表するよ」
「うるさい」
「ふふっ」

 闇の子供は、楽しそうに笑った。

「『神の子』でありながら、『神の意志』に反する存在。本当に興味深いよ、君は」

 …………。

 彼は、大きく息を吸った。

「だからこそ、君には理解してもらえると思う。ボクが『悪魔』を倒したい理由をね」

(……悪魔を倒したい理由?)

 僕の青い瞳は、彼を見つめた。

 虚無の黒い瞳でそれを受け止め、彼は答えた。

「ボクはね、マール。ボクという存在を受け入れる、『ボクの世界』が欲しいんだ」


 ◇◇◇◇◇◇◇


(ボクの……世界?)

『闇の子』は闇の瞳を伏せながら、自分の両手を見つめる。

「ボクは、悪魔の子だ」
「…………」
「けれど、ボク自身の自我は、親となった悪魔本体とは別にある。ボクは、ボクなんだ」

 その声には、強い意志があった。

 彼は、顔を上げる。

「『悪魔』というのはね、本当に恐ろしい存在なんだ」

 あの三日月の笑みが消えていた。

「自身の欲望に忠実で、高い知性はあっても、倫理や共感といった思考はない。そして、強大な力を持っている。彼らにとったら、この世界の人間たちは、ただ自身の愉悦を満たすための道具でしかないだろうね」
「…………」
「いや、ボク自身も、悪魔たちにとったら、大した意味のない存在さ。必要ならば酷使して、必要がなくなったら廃棄される」

 その『闇の子』の表情には、確かな怯えがあった。

「『封印された悪魔』が復活すれば、世界が壊れるまで、彼らは死と絶望の蹂躙を続けるだろう」
「…………」
「ボクは、それを阻止したいんだ」

 …………。

「ボクは、死にたくない」

 そう告げる『闇の子』の声は、淡々としていた。

 だからこそ、そこに秘められた心に、嘘は感じなかった。

 彼は真実を口にしている。

 そうわかる。

「自分の存在を認められずに、圧倒的な暴力によって踏み潰され、消滅する……そんな現実は、受け入れたくない。いや、1つの生命体として、受け入れられない」
「…………」
「だから、ボクは『悪魔』を殺したい。そして、悪魔を復活させる可能性のある、他の『悪魔の欠片』を殺したいんだ」

『闇の子』は、真摯に僕らに訴えていた。

「そのために、ボクは君たちとの停戦を、そして共闘を求めている」

(…………)

 僕らは、何も答えられなかった。

 雪の世界で、僕らは10メードほどの距離を保ったまま、向き合っている。

 ヒュオオ……

 冷たい風が吹き抜ける。

 キルトさんが呟いた。

「敵の敵は、味方ということか」
「…………」
「…………」
「…………」
「話はわかった。だが、それに応じて『悪魔』を皆殺しにしたあと、そなたは、どうする?」

 黄金の瞳には、強い光があった。

「我ら人類の中で、共に生きる気があるのか?」
「まさか」

『闇の子』は一笑に付した。

「君ら人類が、ボクらを受け入れるとは思えない。君たちは、自分たちが世界の支配者でなければ、安心できない生き物だ。悪魔がいなくなれば、今度は、脅威となるボクらを殺そうとするだろう?」
「…………」
「そして、それはボクも同じ気持ちさ」

 彼は、三日月のような笑みで笑った。

「最初に言っただろ? ボクは『ボクの世界』が欲しいんだって」

 そこにあるのは、深い闇。

 覗き込めば落ちていくような、深い深い漆黒の意志だ。

(つまり脅威の優先度か)

 いつかは、僕らとも決着をつける。

 でも、その前に、一番の脅威である『悪魔』たちの排除を優先したいんだ。

 そのための、仮初の握手。

 一時的な共闘関係を作ろうと、『闇の子』は提案しているんだ。

「応じると思うか?」

 キルトさんが試すように言った。

「もちろんさ」

『闇の子』は余裕で答えた。

 2人の視線が、空中で見えない火花を散らした気がした。

 空気が張り詰める。

 息が詰まる。

 やがて、キルトさんが息を吐いた。

「その提案を信じられる証があるか?」
「ないよ」

 彼は素直に答えた。

「信頼は、言葉で生まれるものじゃない。だから行動で生みだそう」
「…………」
「ドル大陸に封印された悪魔が、復活しかかっている。その結界は、あと1年も持たないだろう」

(……は?)

「なんじゃと?」

 キルトさんも唖然の表情だ。

 彼は言った。

「まず優先すべきは、その悪魔の排除だよ」
「…………」
「ボクらも、その地に向かう。まずは最初の共闘を、そこでしようじゃないか」

 そして、笑った。

「半信半疑かもしれない。でも、そう聞かされれば、君たちは行くよね」
「……ぬぅ」

 キルトさんは悔しそうに唸った。

「もう1つ、情報を与えようか」
「何?」
「暗黒大陸には、まだ行かない方がいい。あそこは、本物の魔境だ。もう少し力をつけておかないと、君たちでも、すぐに死ぬよ?」
「…………」
「ふふっ、共闘前にいなくなられては困るからね」

 彼は、そう言って、

「あ、そうだ」

 と思い出したように付け加えた。

「すっかり忘れていたけれど、これはサービス」

 刺青の男に視線を送る。

 男は、何かを放った。

 ドサッ

 僕らの前の雪の地面に落ちたのは、巨大蟻の頭部だった。

 緑色の血液が、雪の白さを汚していく。

「君たちが女王蟻と戦い易いように、他の蟻は、全部、駆除しておいたよ」

(え?)

 その意味がゆっくりと浸透する。

 見れば、12人の刺青の男女の手足は、緑色の血に濡れており、肌には返り血も散っている。

(……なんで?)

「信頼は、行動が生むんだよ」

 呆然とした僕に、彼はおかしそうに答えた。

 キルトさんが険しい表情で、『闇の子』を見返した。

「テテトの人々はどうした?」
「坑道内にいるよ」

 彼は答えた。

「邪魔だったんでね、坑道内に閉じ込めてある。もちろん殺してないよ? それぐらいの配慮はするさ」

 …………。

 なんだか本当に、戦いの空気ではなかった。

「話すべきこと話せたね。それじゃあ、ボクらはもう行くよ」

『闇の子』は笑いながら、後ろに1歩下がった。

 刺青の男女も、引こうとする気配がある。

 キルトさんも、イルティミナさんも、ソルティスも何も言わない。

 雪の世界に、彼らは消えようとする。

 でも、その前に、僕は口を開いた。

「待って」
「ん?」

『闇の子』は、興味深そうに僕を見て、止まった。

「なんだい、マール?」

 …………。

 少し息を殺して、僕は聞いた。

「これまでに……君は、僕と同じ『神の眷属』を何人、殺している?」

 ピリッ

 空気が張り詰めた。

 刺青の男女が、緊張した様子で、腰を低く構える。

 キルトさんやイルティミナさんも驚いて、僕を見ていた。

「答えろ」

 僕は言った。

 彼は、静かに答えた。

「7人」
「…………」

 聞いた瞬間、僕は目を閉じる。

 ドンッ

 体内にある大いなる力の蛇口が全開になった。

 獣耳が生え、太く長い尻尾が生えてくる。

 同時に、『神武具』が砕けて、光の粒子となって僕にまとわりついた。

 ヴォオン

 虹色の全身鎧。

『究極神体モード』となった僕は、アークインの堪え切れない激情に飲まれて、『闇の子』へと襲いかかっていた。

「あぁああああっ!」

 雄叫びと共に突進する。

 刺青の男が前に出て、僕へと掴みかかった。

 ゴキンッ

 外骨格のような虹色の装甲に包まれた小さな腕は、逆にその腕をへし折って、20メード以上も弾き飛ばしていた。

 もう1人、刺青の女が変身しながら横から襲いかかってくる。

 植物のような肉体。

 その両腕から延ばされた蔦が、僕の全身に絡みつく。

 首にも巻き付き、鉄筋さえ折れそうなほどの威力で締め上げてくる。

 けれど、

 ブチチッ

 その蔦を引き千切り、それをまとめて掴んで、思いっきり振り回した。

 ドゴンッ

『ぐはっ!』

 ソルティスのすぐ目の前の地面に、魔物の女は叩きつけられた。

 圧倒的な暴力。

 究極神体モードの恐るべき力に、『闇の子』も目を見開いている。

 その首目がけて、僕は、腕を振ろうとした。

「マール!」

 瞬間、イルティミナさんの声が聞こえた。

(っっ)

 ギシィ……ッ

 鋭い爪のある腕が、闇の子の黒い肌に触れる位置で止まった。

 紫の血が一筋、その首を流れ落ちる。

 狼の頭部のような兜が、『闇の子』の顔を至近距離から見下ろしていた。

「これ以上、僕の同胞(かぞく)に手を出すな」

 それはアークインの声だったかもしれない。

『闇の子』は、頷いた。

「わかった、約束しよう」
「…………」

 ダンッ

 僕は、後方へと跳躍する。

 空中で虹色の全身鎧は、光の粒子へと変わっていき、着地した時には、獣耳と尻尾の生えた神狗マールに戻っていた。

 すぐそばには、倒れたままの植物の魔物がいる。

 僕は、それを見つめて、

「ソルティス」
「え?」

 名前を呼ばれた少女は、びっくりしたように僕を見た。

 僕は言った。

「あの魔法、試してみて」
「え、あ……う、うん。わかったわ」

 どこか慌てたように頷き、彼女は大杖を構えた。

『闇の子』は怪訝そうに眉をひそめた。

 その目の前で、ソルティスは、魔法を詠唱して、

「その身に流れし魔病を、聖光にて払いたまえ! ――ファ・パ・ルンティア!」

 ピカッ

 閃光のような白い輝きが、杖の魔法石から迸った。

 それを浴びて、植物の魔物は、ビクッと震えた。

 次の瞬間、その肉体が魔物になった時とは逆再生のように変化して、人間の姿を取り戻していく。

 やがて現れたのは、全裸の女性の姿。

 ただし、その肌から刺青のようなタナトス魔法文字は消えていた。 

「やった、成功よ!」

 ソルティスが喝采を上げる。

 僕は頷いた。

 残った11人の刺青の男女は、愕然とした表情で、仲間の変化を看取った。

「…………」

 ザワッ

『闇の子』の気配が変わった。

 凪であった海面が、嵐を受けて大波をうねらせようとしている、そんな危険な気配だった。

 ザワザワザワ……ッ

 濃密な魔の気配。

 小さな身体から、紫色の闇のオーラが立ち昇っている。

 キルトさんとイルティミナさんが、反射的に武器を構えた。

 刺青の男女は、蒼白になっている。

 怒りの表情を歪ませる『闇の子』に、僕は言った。

「君がしたことを、僕らもしただけだ」
「…………」
「…………」
「……そう。……そう、だね」

 歪んだ笑みで彼は、軋むような声を発した。

「彼女はボクの作った家族だった。それを君は奪った。……確かに同じだ」
「…………」
「忘れないよ、マール」
「僕こそ、忘れるものか」

 僕は真正面から、その殺意を受け止めて答える。

「君が家族だといった人は、君のせいで魔物にされ、人生を狂わされたんだ。その不幸に巻き込まれた人も大勢いる。僕は、それを許さない」
「…………」
「共闘はしてもいい。でも、君の世界は来させない」

 はっきりと、そう宣言した。

 僕を見つめて、『闇の子』は笑った。

「それでこそ、マールだ」

 その全身から、闇のオーラが消えていく。

「ボクは、自分の望む世界を手に入れてみせるよ」

 虚無の黒瞳が、僕のそばにいる3人の仲間を見た。

「そこは『魔血の民』だとて差別されることのない平等な弱肉強食の世界、実力主義の世界さ。むしろ『魔血』のない者こそ劣等種として認識される。この既存の価値観で出来上がった世界を混沌の闇に落とし、根本から作り変えてみせるよ」
「…………」
「…………」
「…………」
「君たちにも、よく考えていて欲しいな」

 柔らかな笑み。

 同じ『悪魔の子』として、同胞(かぞく)に向ける笑顔だった。

 ソルティスは、ちょっと息を呑んだ。

 キルトさんは、険しい表情を崩さないまま。

 そして、イルティミナさんは、

「私が望むのは、マールの望む世界のみ」

 真紅の瞳で『闇の子』を見つめたまま、僕の隣に寄り添った。

 肩に置かれた手は、とても熱い。

(イルティミナさん……)

 僕の視線に、彼女は微笑んだ。

「そう」

 彼は、途端に、彼女からは興味を失ったように視線を外した。 

 その闇の視線は、再び僕を捉える。

「まぁ、いいさ。君がボクを憎むのは、ボク自身の行動の結果だ。『悪魔の欠片だから』などという、他の『神の子』の理由とは違う」
「…………」
「やはり興味深いよ、君は」

 …………。

「神と悪魔の子でありながら、ボクらは異端だ。しばらくは共闘できるさ」

 そうして浮かぶ、赤い三日月の笑み。

 ヒュオォオオ……

 強い風が吹いた。

 積もった雪が舞い上がり、世界が白く染まっていく。

 そこに消えていく黒い影が、囁くように言う。

「――ドル大陸で待っているよ、マール」

 ヒュゴオ

 突風が僕らの視界を封じる。

 やがて、風が消えると、そこには誰の姿もなかった。

『闇の子』も。

 11人の刺青の男女も。

 残されたのは、僕ら4人と、魔物から人に戻った女性が1人。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 僕らは、しばらく言葉もなかった。

 気づけば、手が震えていた。

 ギュッ

 強く握り締める。

 それは思いがけない『闇の子』との邂逅だった。

 ふと青い空を見上げる。

 澄み切った青空は、どこまでも高く、広くて、

(…………)

 そこに向かって僕は、白く濁った息を長く、長く吐きだした。